主任司祭 長澤 幸男
「届け物です!」玄関に若い人の張りのきいた声が響く。2階から降りていくと、「代引きです」と。財布からお金が飛び出す。品物が渡され「ここにサインして下さい」とまさに紙切れのようなものにサインを迫られる。通販の時代、便利になったと思うが何か味気がない。運んでくれた兄さんには悪いが営業の仕草で顔も印象が薄い。「届いたおふくろの小さな包み、あの故郷へ帰ろ~かな、帰ろう~かな」千昌夫の顔と、朗々と歌うあのメロデイーが情感をくすぐり、つい口ずさみたくなる。
そういえば、懐かしい友や、遠くの朋友からの手紙は温かい。しかも予想もしない人から届いた手紙はなおのこと嬉しい。このところあまり聞かない話だ。来ないのは、人のせいだと言う前に、自分が筆無精でご無沙汰しているからだと、自責の念に下を向く。聖書は神からの手紙と教えられたが、「お前は返事を書いているか?」。これまた筆無精で言い訳できないから自虐的な苦笑をする。
聖書にはここかしこに警告と脅しに近い「届け物」が見え隠れする。コロナ禍において、見えぬ相手、それも未だ治療のすべを知らぬ状況では、人は楽観主義によりすがり、現実から逃避する。日本は世界に比べて感染者は少ない。自分はかからないだろう。まもなくワクチンが来る。はて? これは旧約聖書のどこかに出てきたセリフだ。
我々の若いときから
恥ずべきバアルが食い尽くしてきました
先祖たちが労して得たものを
その羊、牛、息子、娘らを。
(エレミア書3章24節)
注釈が必要なので、まずバアルとは偶像で、さしずめ今日的に言うと、膨大な消費主義という偶像だろうか。コロナが収束したのち、今のような生活スタイルには戻らないとの見識と覚悟が、ほかでもない私たち人類に求められている。食品ロス、大量のプラスチック汚染、メタボ、膨大な炭酸ガス排出。これが神からの警告ではなかろうか。
昔は「これ頂戴」、と言って店員の顔を見て買い物ができたなあと懐かしく思う。メールやファックスではなんとなくしっくりこない。コミュニケーションに何かが欠けている。買い物だけでなく、人と人のコミュニケーションがいまひとつしっくりこない。以前は、人との会話で、顔を見て話ができたので、いつ話を切り出したら良いのか、話のモードを変えるだけでなく、内容も変える細かい芸などできたが、こと電話や、ファックス、メールとなるとそうはいかなくなる。残るのはことばを磨くしかない。つまり、ことばの重みが今以上に大切なのだろう。
ことばの重みとなると、古今東西、偉人、賢人などの遺した名言があるが、聖書に目を向けると、私たちの信仰の世界では、聖書は神の言葉であり、神の人間に宛てた知らせでありメッセージと理解する。その特徴は、意外性であろう。神は、想定外の話をされる。聞く者は、驚きと、これは何のことかと考え込んでしまう。
その昔、天使が神殿の祭司ザカリアに、それにマリアにも神の音信を届ける。良き訪れをもたらすとはなんと美しいことか。フラ・アンジェリコの受胎告知が目に浮かぶ。特にマリアは驚きと不安の混じった霧晴れぬ心から、一転して喜びにテンションが上がる。
これこそ良き訪れ、福音であろう。