阿部 仲麻呂(東京カトリック神学院教授、鷺沼教会協力司祭)
日本語の「くむ」という言葉には、実にさまざまな意味が潜んでいます。それゆえに、すべてを説明し尽くすことは不可能に近いことでしょう。しかし、ここでは聖書と関連性のありそうなものだけをいくつか、おもいつくままに並べて紹介してみましょう。なお、今回は7月と8月の合併号ですので、2回分の長い文章となります。
- 汲む――相手の想いを察する/御父の御旨をおもんぱかるイエス
まず、「相手の想いを察する」という意味の「汲む」ならば、読者の皆さんにとっても分かりやすいものかもしれません。イエス・キリストが常に御父の御旨を大切におもんぱかって生きていたからです(マルコ14・35-36)。そして、皆さんもキリスト者として「相手の気持ちを察する」毎日を過ごしていることでしょう。「相手の深い想いを察する」ことは、そのときどきの「相手の気持ち」に注目していれば簡単にできることなのです。小さなしぐさを見逃さない集中力が相手の気持ちを知る手がかりとなります。
聖書全体において、御父である神の深い想いは「御旨」とも「神の計画[はからい]」(エフェソ1・11/ローマ9・10/箴言16・1-9)とも呼ばれていますが、決して遠大なことなのではなく、むしろ日常生活の中で明らかになるものなのです。私たちが心のなかで神と常に対話していれば、気楽な親しさが醸し出されてゆくことになり、次第に神の御旨が理解できてくるはずです。
「私たち」にとっての他者が「神」や「隣人たち」です。「神と隣人とを愛せよ!」(マタイ22・37-40)というイエスの呼びかけは、言い換えれば、「他者(神や隣人たち)の意図を汲みなさい」ということになります。他者の心の底に隠されている望みを注意深く受け留めて、相手の身になって生きることが信仰者の最大の特長なのでしょう。それゆえ、「自分のおもい」と「他者(神や隣人たち)のおもい」とを絶えず重ね合わせてズレを修正してゆくことが欠かせません。もしも「自分のおもい」だけに偏ると自分勝手で自己中心的な状況となり、他者を軽視することに繋がります。逆に、他者におもねり過ぎると自分の気持ちを押し殺すことになり、ストレスが激しくなります。そこで「中庸な態度」(メガロプシュキア)が重要となります(イグナチウス・デ・ロヨラ『霊操』における「不偏心」[偏らない心の持ちようであらゆるものを眺めること]も同様の姿勢です)。つまり「自分」と「他者」の間のズレを調整する冷静な努力が必要となるわけですが、それは聖書に基づけば「思い直す」(ナーハム;エレミヤ18・10)という仕儀です。それは「身をよじるようにして悔やむ」ことです。「思い直す」(マタイ21・29)とは「考え直す」ことです。それはヘブライ語の「ナーハム」に該当しますが、「なぐさめる」、「あわれむ」という意味もあります。「あわれみに胸を焼かれる」(ホセア11・8)という神の激しい愛情が想い出されます。 - 酌む――水をかめに酌む/永遠のいのちの水を酌む/酒を酌み交わす
聖書の中では「水をかめに酌む」、「永遠のいのちの水を酌む」、「酒を酌み交わす」というイメージがたくさん出てきます。イスラエルの民が暮らしていた砂漠地帯では「水」は、まさに「いのちを永らえさせる水」でした。そして砂漠地帯や雨の少ない地域では「水」を一滴も無駄にせぬように丁寧に包みこんで護る革袋やかめもまた重要な生活必需品でした。
「あなたがたはよろこびながら救いの泉から水を汲む」(イザヤ12・3)という文章からも分かるように、神が与えて下さった水を大切にいただくという仕儀は古代イスラエルの民の伝統でした。砂漠地帯で井戸を掘り起こして貴重な水を発見したときに、神の支えを実感しつつ感謝して祈り、喜びのうちに生きる姿勢は、まさに信仰(神への徹底的な信頼)と生活(神に感謝する姿勢)とが一つであることを教えてくれます。
創世記24章に美しい物語があります。アブラハムのしもべのエリエゼルはアブラハムの息子イサクの嫁探しを命じられて旅立ちます。旅先で花嫁を見つけるときの基準は「老齢のエリエゼルに水を飲ませてくれるばかりか、そのラクダ10頭にも水を飲ませてくれること」でした(一頭あたり10リットル以上の水を飲むラクダが10頭ですから、100リットル以上の水を汲み出して飲ませてくれるほどの熱意と体力と気遣いができる生活力のある女性がイサクの嫁にふさわしいということになるわけです)。前もって何も知らなかったリベカはエリエゼルに気づくと見事に親切な態度を示して合格したのです。「水を汲む」ということは、相手とラクダ10頭のすべてを徹底的に気遣って支えるだけの熱意と親切さと体力を備えていないとできないことなのです。その後、リベカはエリエゼルのラクダの隊商に護衛されて無事にアブラハムの天幕へ到着します。「日が暮れるころ、イサクは野に散歩しに出かけたが、目を上げて見ると、らくだが近づいてくるのが見えた。リベカも目を上げて、イサクを見た」(24・63-64)。2人の男女がお互いに相手を眺めて信頼を築き上げてゆく(目合=まぐわい=目と目で通じ合うこと)、何とも美しい場面です。「水を汲む」ことが新たな結婚による信頼関係を実現させたのです(ヨハネ4・1-30ではイエスとサマリアの女性との信頼関係が描かれますが、その場面でも「水を飲ませてほしい」というイエスの呼びかけに応えて「水を汲む」女性の親切な態度が描かれますが、イエスも女性に対して「永遠のいのちの水」を与える約束をします/なおヨハネ7・37-38にも「永遠のいのちの水」の話題が出てきます)。ともかく、相手に一杯の水を汲んで飲ませることが私たちの人間性の査定につながるのです(マタイ10・42)。一日中働いて、くたくたになっているときに一杯の水を差しでされたときの喜びは、何ものにも代えがたい「救い」そのものです。
豊かな生活とは、水がふんだんにあることであり、良質な水によって育まれた葡萄園から収穫される葡萄の実から作られたワインを心ゆくまで愉しむことでもありました。地中海沿岸を含む古代ローマ帝国で水とワインが生活を愉しいものとさせていたことは疑い得ません。ミサ聖祭の中でワインと水が使用されていることもまた、人生を伸びやかに愉しみつつ、いのちを永らえさせることの尊さを想い出させてくれます。カナの婚宴の場面も想い出されます(ヨハネ2・1-11)。
「酒を酌み交わす」イエス・キリストの姿は、特に罪びとの再出発のときに見受けられます。徴税人マタイやザアカイがイエス・キリストと出会って感銘を受け、感謝のうちに新たな人生を選んだときに、酒宴を催しました(マタイ9・9-13/ルカ19・1-10)。新たに生き始めた仲間を得たイエスも彼らと一緒に喜んで「酒を酌み交わし」ました。イエスは相手の再出発を心から祝福しました。いっしょに愉しんで、とこしえのいのちの豊かさを味わうひとときの尊さを噛みしめることは、私たちのささやかな幸せでもあります。皆さんの中には酒が大好きな人もいるかもしれませんが、何よりも相手を祝福するという意図で、一緒に「酒を酌み交わす」ことを大事にしたいものです。 - 組む――足を組む/相手と組む/共同チームを組む/建物の柱を組む/予定を組む/組みひも/活字を組む
さて、聖書から離れて、ここでは日常の出来事を眺めましょう。「足を組む」、「相手と組む」、「共同チームを組む」、「建物の柱を組む」、「予定を組む」、「組みひも」というように、私たちは「組む」という言葉を頻繁に用います。「組む」ことは、新たな何かを創り出そうとする動きと繋がっています。つまり創造の業として「組む」ことを理解できるのです。
「足を組む」ときに、それまでの姿勢を変えて血液の流れを活性化させようとする無意識の意図が働く場合もあります。「相手と組む」と、お互いの才能が相互に相手を補うので、相乗効果的に、これまでにない、すごい作品ができる場合もあります。しかも、さらに多様な能力をもつ人びとが一つの場で「共同チームを組む」ときに、巨大な業績を実現することも可能となります。12使徒が一致団結して宣教した結果、現在では15億人以上のキリスト教関係者が地球上で活躍しています。それから、「建物の柱を組む」際に丁寧に注意深く取り組めば、頑丈な建造物が完成します。たとえば法隆寺などは1300年以上も倒れずに歴史上の風雪をものともせずに、今でも高貴な佇まいで私たちの心を魅せてくれています。さらに、「予定を組む」というときに、これから始まる何かを愉しみにして心を躍らせる私たちの笑顔が華やかに花開きます。それから、「組みひも」と聞けば、金沢の工藝品を思わず連想します。戦国時代の武将の前田利家が加賀百万石の街づくりをする際に全国各地から優秀な職人たちを多数集めて意図的に文化都市を創ろうと努めたことが数々の美しい「組みひも」の意匠を生み出し、その洗練された技術は今日も受け継がれているばかりか、いまや世界的なデザインとして高く評価されています。16世紀以降の活版印刷の技術は聖書の普及に大きな影響を与えましたが「活字を組む」職人の心意気は人知れぬ愛情の深さに支えられていました(最近はデジタル組版が圧倒的に増えましたが活版印刷のぬくもりは忘れ難いです!)。こうして「組む」ことの創造性は私たちの人生を前向きに支えます。 - 雲(くむ)――雲のなかから声がした
「雲」は古語の発音では「くむ」と読みます。キリスト者にとっての「雲」のイメージは何と言っても「主イエスの御変容」の場面を想い出させずにはおかないものです(マルコ9・2-8)。「雲」は神聖なものが顕現する場面で登場します。「雲」が出てくるということは、そこにおいて神が姿を現わす前ぶれとなるのです。イスラエルの民を治める神の声は「雲」の中から聞こえてきます。聖書には「雲のなかから声がした」という表現があるからです。
日本でも、さまざまな絵屏風を眺めれば明らかなように、神様や仏様や天皇陛下や貴族たちのおわします空間には雲が立ちこめているという意匠が施されています。ここには神聖なる者がいるのだ、という目印として「雲」が描かれているわけです。「雲」は空間を覆う不思議な役目を果たすことで、神聖なる者の姿を微妙に隠すと同時に、ここから新たな何かが始まるという顕現の予告を突き付けるのです。 - Cum――といっしょに
神学生時代のことです。ラテン語を勉強していると必ず出てくる言葉が「Cum」でした。「といっしょに」という意味です。ラテン語の「Cum」を読み上げるたびに、「といっしょに」という意味がおのずと湧き上がります。つまり、相手と一緒に佇んで相手の心の想いを汲み取るという意味での「Cum」の極意を体得することができるのです。
イエス・キリストが常に私たち「といっしょに」いてくださる、という非常にありがたいメッセージが新約聖書全体にみなぎっていますが、キリスト者にとって「Cum」は生活の真っ只中で実感されるものでもあります。イエス・キリストが必ず私たちを護って下さるというイメージを抱いて祈る人が教会共同体の中でもたくさんいるからです。とくに、ロザリオの祈りを捧げる毎日を過ごしている信徒の皆さんは主イエスや聖母マリアと一緒に佇んで祈るひとときを生きているわけで、私たちは身体的に佇む祈りの貴重な意義を今日も決して忘れてはならないと思います。 - クム――タリタ・クミ(娘よ[タリタ]、起き上がりなさい![クミ→クム])
「タリタ・クミ」という感動的な呼びかけが新約聖書に出てきます(マルコ5・41)。「娘よ、起き上がりなさい!」という言葉です。イエス・キリストが使っていたアラム語の動詞「クミ」は「起き上がりなさい!」という意味の命令形です。ギリシア語に音写される際に「タリタ・クム」となりました。イエスの愛情深い呼びかけの迫力は確かに伝承されました。
「くむ」という日本語を聞くと、筆者はなぜか「タリタ・クム」という言葉を想い出します。すでに亡くなって冷たくなっている女の子を目の前にして、イエスが「娘よ、起きなさい!」と呼びかける場面は大変印象的で、感動を与えるからです。子どもを失って失意のどん底に突き落とされた両親の気持ちを汲むときに、再び起き上がる女の子のエピソードは、思いがけないほどの幸せな気持ちを呼び覚ますものです。灰色の景色が一挙にバラ色の明るい状況に一変し、止まっていた時が厳かに動き始めるというイメージが心の中に広がります。大切な人が再び私たちと一緒に生きてゆくことができる、という万人にとって一番嬉しい希望(復活のよろこび)をイエス・キリストが確かに授けてくれるのです。
他にも「くむ」という言葉の意味には、さまざまなものがあるのかもしれません。ということは、「くむ」という言葉そのものは、「くみ尽くせないほどの多様な意味を備えているものである」ことが明らかです。どうか、皆さんも「くむ」の新しい意味を探してみて下さい。
一つの言葉を手がかりとして、さまざまなイメージを連想しながら、自分たちの人生の各場面と聖書のメッセージとを重ね合わせて眺めてみることも、案外おつなことなのかもしれません。イメージを重ね合わせて愉しむという「かけことば」の妙味は、いにしえの日本では広くゆきわたっていた言葉づかいでしたが、今日も私たちに何らかの新鮮な感覚を与えてくれるのかもしれません。固定化された退屈な日常生活を、言葉遊びをとおして、ちょっと崩してみることができれば、もっともっと結構愉しいひとときを過ごせるものなのかもしれません。合掌。
2021年7月7日(木)七夕に