—— 小羊と母羊を大切にかばう牧者キリストと家庭の父親 ——
阿部仲麻呂(東京カトリック神学院教授、鷺沼教会協力司祭)
※実は、この原稿を書いているのは「主の洗礼」の祝日(2022年1月9日)です。この日の「説教」でイザヤ書40章11節を扱いました。「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」という箇所です。ちょうど「羊を大切に世話する」(飼う)主キリストを想い出させる話題となっていました。
主イエス・キリストがヨルダン川で洗礼を受けます。罪のないお方が、つまり常に神とともに生きている独り子イエス・キリストが、洗礼を受ける必要のない救い主が、あえて洗礼を受けました。主は心が清く、常に誰かの幸せを願って生きています。まさにイエス・キリストの心は、御父である神のみこころに沿っています。相手を祝福して幸せを願う心をもつこと。これが神の御旨であり、神の子供としての人間の理想的な在り方です。
イエス・キリストはあえて洗礼を受けます。頭を下げてへりくだって、ヨルダン川の底にまで沈み込みます。これは、あらゆる人が悔い改めて人生をやり直してゆこうと志している1世紀のイスラエルの社会状況において、イエス・キリストが人びとと連帯する、つまり協力する出来事です。つまり、イエス・キリストは相手の努力を認め、一緒に生きようとします。相手と一緒に連帯して生きることが「イエスの洗礼」の意義です。
ヨルダン川に集まっていたイスラエルの民は、みなそれぞれの心に何らかのわだかまりを抱えており、自分の罪深さにおののいていました。何とかして生まれ変わりたい、人生を見直したいと望んでいたわけです。誠実に歩もうと決意した人びとがヨルダン川に集まってきたのです。それゆえに、人びとの真心に気づいたイエス・キリストも相手と一緒に誠実に生きる態度を示したのです。
頭を下げつつヨルダン川の川底に沈むイエス・キリスト。まさに人びとと一緒に、神の御前に出て、徹底的にへりくだるのが救い主の姿なのです。降りてゆくイエス・キリスト。
ところで、皆様がたは親として過ごした時に、子供が学校から呼び出しを食らうと、すかさず飛んでいって先生に頭を下げるということもあったかもしれません。親には何の落ち度もありません。しかし、親は自分の子供を大切に想うあまり、子供の失敗を一緒に背負います。親は先に頭を下げて先生に対してお詫びを表明します。そして、子供にも頭を下げるようにと、嫌がる子供の頭を多少無理に押さえつけながらでも謝罪させます。
親は、常に子供とともに頭を下げるという経験を積み重ねてゆくわけです。これが子育てです。そこから推測すれば、イエス・キリストがへりくだって頭を下げてヨルダン川に沈むという「主の洗礼」の出来事は、救い主が数多くの人びととともに神の御前で謝罪することであるわけです。それは、まるで保護者が教師の前で子供と一緒に頭を下げるのと似ています。保護者には何の落ち度もありません。保護者は子供を大切にするあまり、子供の失敗を一緒になってお詫びするのです。ここに、親子の愛情深い連帯が見受けられます。こうして「主の洗礼」の出来事というものは、子供である私たちのことを必死にかばって、一緒に頭を下げてくれる保護者としてのイエス・キリストがいつも共にいて下さるという事実を、教会共同体が歴史的に典礼の暦に記念日を組み込むことによって想い出してきた記憶を毎年確認するものであることが明らかとなります。
親心をもって、子供の私たちと一緒に頭を下げてくれるイエス・キリスト。キリストには何の落ち度もないのに、子供の私をかばってくれる、という親心。そのように心強い味方としてのイエス・キリストが確かにいて下さるのです。親心とは、まさに神である御父のいつくしみ深い気持ちそのものです。独り子イエス・キリストをとおして御父である神の親心が社会的に明らかに示されます。それが「主の洗礼」の出来事です。そのときに、イエス・キリストの周囲には愛情深い想いがみなぎっていますので、その事態がルカ福音書(ルカ3・15-16、21-22)では聖霊として描かれています。
興味深いことに、ルカ福音書では、独り子イエスがへりくだってヨルダン川で洗礼を受けて他者と連帯して生きる姿勢を見せて、その後、川底から上がったときに、天が開けて神の愛情深い呼びかけとしての聖霊が目に見えるかたちで降ってきたことを述べています。その時に御父である神の声が響きわたります。独り子と聖霊と御父とが一緒に働いている姿が「主の洗礼」の出来事としてルカによって描かれたのです。このことが後日、三位一体の神の理論の発展につながります。御父と御子と聖霊とがともに相手をかばって、へりくだって下さる親心において一体化しているわけです。
私たちは神の親心によって支えられています。それこそが、三位一体の神の出来事です。御父と御子と聖霊はともに働いて私たちを支えます。三位一体の神の理論は何か遠くの出来事なのではなく、むしろ子供である私たちが常に親から大切にかばってもらっているという日常の出来事のように現実的なものなのです。私たちが親心によって支えられているという尊い出来事が三位一体の神の理論に発展しています。
その尊い出来事について、第二朗読(テトス2・11-14、3・4-7)で使徒パウロが1世紀の信徒たちに向かって必死に説明しています。とくに、信徒たちをまとめるテトスという名のパウロの後継者に対しての手紙において、御父と御子と聖霊がともに働くという「親心」を備えていることを述べています。尊い呼びかけをとおして、相手をこんこんと諭すパウロ。彼は自分の後継者に対して「神の親心」をしっかりと理解して生きるようにと必死に訴えかけています。司教として歩むということは「親心」を備えて生きることなのです。
第1朗読(イザヤ40・1-5、9-11)のイザヤ書においても、同じような呼びかけがなされています。最後の部分を読みましょう。「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」という箇所です。預言者イザヤは、ちょうど「羊を大切に世話する(飼う)主キリストの姿をあらかじめ予測しているわけです。イエス・キリストの姿を先取りして示すイザヤの呼びかけ。イエス・キリストは小羊を大切に抱きながら、群れを励まし、小羊の母つまり母羊ですが、彼女のことをも丁寧に導きます。つまり、弱い立場に追いやられている人たちを、しっかりと守るのがキリストなのです。とくに子供と女性をかばって、一緒に歩むのがキリストです。小羊と母羊のイメージは、隅に追いやられた人間の子供と母親の姿を彷彿とさせます。たしかに、イスラエルの民の子供たちや女性たちをかばう救い主の優しさがイザヤによってイメージされているわけです。子供や女性をかばいながら歩むのは、救い主のわざなのです。
今から2千年前、イエス・キリストが活躍していたころのイスラエル社会というものは、男性たちが権力を独占しており、いわば男性中心社会でした。政治も信仰表現も、あらゆる事柄は男性の責任者によって取り仕切られていました。男性のみが一人前の人間として扱われており、政治参加を許され、礼拝の司式を担えたのでした。他の福音朗読箇所でも、5千人がイエスから食べ物をいただいた、という記述が出てきますが、そこでは女性や子供は数えられていません。男性のみが一人前の人間として数えられており、子供や女性は数に含まれていないのです。そこから分かることは、1世紀のイスラエル社会というものは男性だけを優遇する構造であったという事実です。今の時代から見れば差別的な社会であったわけです。
しかし、イザヤは従来のイスラエルの社会構造に縛られてはいません。小羊と母羊を丁寧に守る牧者としての救い主のイメージがイザヤによって提示されているからです。救い主は子供や女性をかばって大切にするお方なのだというイザヤの信念が男性中心的なイスラエル社会において叫ばれていたのです。このことはイエス・キリストの態度があらかじめ期待されるべく強く望まれて新たな時代の気運が高まっていたのを実感させます。
皆様がたも親として、とくに男性の方がたは父親として子供や妻を大切にかばって支えてこられたのでしょう。この父親の姿こそが、まさに救い主と同じ態度なのです。ひとりひとりの男性は、自分が父であるという自覚を抱いて人生を歩み続けるうちに、次第にキリストの態度を受け継いでいるわけです。イザヤ書はお父さんがたの家庭での役割を再確認させてくれるメッセージを示しています。家庭生活そのものが救いの歴史の出来事を現わしているのであり、イエス・キリストの態度がみなぎる場なのです。
しかも、親である皆様は子供の落ち度を一緒になって謝罪するだけのいつくしみをも備えています。親は「主の洗礼」の意味を、自らの家庭生活をとおして再確認しつつ実践しているのです。皆様が知らず知らずのうちに行っている善きわざを本日の3つの朗読箇所をとおして、もう一度想い出してみて下さい。皆様の生き方には意味があります。すでに、家庭生活をとおして子供や女性をかばうことによって主イエス・キリストと同じわざを生きているのです。日曜日のミサは、そのような自分たちの身近な生活の意味を再発見する機会を与えてくれるのです。
相手をかばって頭を下げる親心。それを「主の洗礼」の出来事が私たちに想い出させます。皆様が家庭で生きている丁寧な愛情表現を、どうか今後とも洗練させていって下さい。
2022年1月9日(日)記
(教会報「コムニオ」2022年2月号より)