いつくしみのイエス[部分](アドルフ・ヒワ画)

今日は、「神のいつくしみの主日」と言われます。聖ヨハネ・パウロ2世教皇は、2000年から復活祭の次の日曜日である復活節第2主日を「神のいつくしみの主日」と制定し、神のいつくしみに対する特別な信心を行うことを望まれました。それは私たち信者が自分を反省し、神のような“いつくしみの心”をもって人を赦すためです。

「いつくしみ」といいますと、日本のカトリック教会の『新しいミサ式次第』では、これまで使ってきた「あわれみ」という言葉の多くが「いつくしみ」に変更されました。正直、最初は違和感がありました。なぜなら私は、あわれみの方が罪人である人間に対する神の思いかのように捉えていたからです。つまり単に、いとおしく思うより、あわれに思う方が上から下への神の目線のような愛の印象を持っていました。それに対していつくしみは、いとおしく思い、愛情を注いで、大切にすることで、人間が人や生き物に対して持つような愛の印象でした。

実際のところ今回、あわれみがいつくしみに変わったのは「いつくしみ深いキリストを賛美する」という側面を強調するためだと言われています。いつくしみ深いキリスト、つまり勝手な解釈かもしれませんが、神であり、人となられたキリストの姿を強調しておられるように思います。

ですから、私たちも人に対して“いつくしみの心”をもって関わろうとするとき、本来の神の思い、つまりキリストのように人と同じ立場に立って、水平的な神の目線の愛というものを持たなければならないのではないでしょうか。

主任司祭 西本 裕二


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