後藤寿庵廟堂 photo © Juan Gotoh / WikimediaCommons CC-BY-SA-3.0

主任司祭 西本 裕二

私はこれまで、田畑に作物を植えるために「耕す」という経験をしたことは一度もありません。しかし晩年、土いじりをしたいと考えていますが、農作業において、私はズブの素人で、今は家庭菜園の知識すらほとんどないと言えます。
ただ今回「たがやす」という言葉をテーマとして頂いたときに、初めて知って気づいたことがあります。それは農作業する人にとっては基本だと思いますが、“なんのために土を耕すのか”ということです。

耕すことで、固く締まった土をほぐし、土の中に空気をたっぷり含ませることが必要であり、それをすることで、水はけがよくなり、野菜は土の中に根を伸ばしやすくなるそうです。ですから、耕すということがこれほどまでに大切な作業だと私は思ってもいなかったのです。
また耕すという言葉は、英語で「cultivate」ですが、実はこれは「人を耕す」とか、「心を耕す」といった意味合いもあるそうです。
それを考えますと、私たちキリスト信者の多くは、田畑を耕す者ではありませんが、相手にしているものが違うだけで、人の心を耕すのが私たちの大切な作業ではないでしょうか。

固くなった心をほぐし、神の愛をたっぷり含ませることで信仰の根を伸ばしていきます。

安土桃山時代から江戸時代初期にかけて実在したキリシタン武将に「後藤寿庵」という方がいました。長崎に住んでキリシタンとなり、京都の商人と知り合って、その推薦で仙台藩主であった伊達正宗に仕えます。彼は信仰熱心なキリシタン領主となって天主堂などを建て、家臣らのほとんどが洗礼を受け、宣教師や信徒が多くこの地を訪れたと言われています、徳川の禁教令が出て、正宗は布教しない、宣教師を近づけない条件で彼の信仰を赦そうとしますが、寿庵はその条件を拒否し、逃亡したとも、死去したとも言われています。

しかし、彼の本当にすごいところは、土木を学んでいたので大変な工事をして灌漑水路を築き、砂漠のようだと言われていた岩手県奥州市を肥沃な土地にかえて、人々の生活を豊かにしたと言われています。現在、「寿庵堰」(寿庵はラテン語でヨハネ)と呼ばれ、今に至るまで多くの人に使われてきました。しかし彼がこの堰を造るのには何年もかけて土を耕したのでしょう。でもそれが人の心を耕すために生きた証になったと言えます。それは多くの人が今でも後藤寿庵を慕い、寿庵廟堂を建て、寿庵祭が開催されるなど、その偉大な功績を称え、感謝しているからです。

私たちも彼のように、人の心を耕す者として、少しでも社会に貢献して、生きた証をしていかなければならないのではないでしょうか。

(画像: 後藤寿庵廟堂 photo © Juan Gotoh / WikimediaCommons CC-BY-3.0 )

(教会報「コムニオ」2023年5・6月合併号より)


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