主任司祭 西本 裕二

テーマの「来る」は、主が来られるのを待つ待降節に相応しい言葉のように思います。しかし、また「来る」は、待降節を過ごす私たちキリスト者にとっては、受け身に捉えてしまいそうな言葉でもあるように思います。

待降節は、司祭の祭服などに「紫」の色を用いますが、これは救い主の誕生への期待を込めて、神に心を向け、静かに待ち望む心を表します。しかし、待降節の第一の到来としての「主の誕生」の時を待ち望むというと、何か待っているだけの消極的なイメージを持ちます。
大事なのは、第二の到来としての「主の再臨」を待つ積極的な姿勢だと思います。これこそ私たちが日々求められる姿勢ではないでしょうか。では主の再臨を待つためにどのような行動が求められるのか!

復活祭の準備の期間である四旬節は、祈り、節制、善行など愛の行いがキリスト者に求められます。待降節も、もちろん貧しい人を助け、苦しんでいる人のために祈るなど何か良いことを実行するというのは、決して無駄なことではないと思います。

しかし待降節は、大きく揺れ動く世界の中で、本当に大切なものを“見分ける心”や“気づく心”を持つことが求められると思います。それは自分中心の生き方から神の眼差し、思いをもって生きようとすることです。具体的にはイエスのように人に寄り添い、話しを聞き、相手を尊重し、嫌なことでも進んでやるなど、自分からの積極的な行動が求められます。そのために自分の生き方を見直す必要があります。

教皇フランシスコも2018年12月2日にキリスト者に対して、「待降節にあって、一人ひとりが自分の生き方を見直す」ことを求めています。
また教皇は、マタイ25章の「私が飢えていたときに食べさせ……。」を引用しながら、「私たちは皆、最後には、兄弟をどのように愛したかによって裁かれるでしょう」とされ、待降節の間、「自分のキリストとの出会いが、どのようなものであるかを深く省みるように」と促しています。
つまり、教皇フランシスコが言いたかったのは、私たちキリスト者は常に主の再臨である“最後の審判”を考えながら、自分の生き方を見直さなければならないということだと思います。

今年はロシアによるウクライナへの軍事侵攻、中国の台湾統一のための圧力、北朝鮮による核ミサイルによる挑発、経済不況など、今、世界では様々な問題が起こり、揺れ動いています。このような状況にあって、私たちは、それぞれが自分の生き方を見直すときです。今、どのような人が苦しんでいるのか、どのような人が悲しんでいるのか、どのような問題があるのかなど、そんなことに目を向けて、何が正しいのか、そして何をしなければならないのかなどを考え、それによって、自分のできることで神の愛を証ししていかなければならないのではないでしょうか。

待降節は、主の降誕であるクリスマスの時をただ楽しく待つだけではなく、むしろ愚かで悲惨な今の現実を見て、主の再臨を考えながら、常に真剣な気持ちで待たなければならないのではないでしょうか。

(教会報「コムニオ」2022年11・12月合併号より)

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