いつも変わらない心で生きる

てるてる坊主

先日、ニュース番組の中で天気予報をやっているのを見ました。そこで取り上げていたのが、そのテレビ局に所属する気象予報士たちが「いつ梅雨が明けるか」と予想したものをパネルにして説明していました。しかし梅雨明けは気象予報士によって10日ほどの幅がありました。私はこのとき、梅雨明けを当てるのはけっこう難しいことだとはじめて知りました。

今年は晴れの日が多く、梅雨らしさをあまり感じなかったように思いますが、このような梅雨明け予報があるというのは、それだけ日本はジメジメした気候で、それに影響されて浮かない気持ちになる人が多いからではないでしょうか。

しかし日本の梅雨は、「五月雨(さみだれ)」とも言いますが、日照り続きの時期に降って、田畑や草木を潤す“恵みの雨”でもあります。ですから、私たちは梅雨独自の自然を愛で、心穏やかに過ごせたら幸いではないでしょうか。

放浪の旅を続けた俳人、種田山頭火の俳句が、梅雨の時期にどのような心で、私たちが過ごすべきかを教えてくれているように思います。
『山あれば山を観る 雨の日は雨を聴く 春夏秋冬
あしたもよろし ゆふべもよろし』

この山頭火の句を読んだ方が次のように解説しています。「目の当たりに広がる大自然は、四季折々どの季節であっても、いつも見応えのある景色を作り出してくれる。人の一生も同じようなもの。人生には色々な出来事があって、喜怒哀楽、様々な心模様が生まれてくる。そのすべてをあるがままに受け入れてみよう。例えば雨が降っても一喜一憂しないで、雨音を楽しむくらい余裕を持とう、晴れの日ばかりにこだわってはいけない。どんな時も自分らしく生きることが大切なのだ」と。

この山頭火の言うような生き方を実践するために、私たちはやはり“信仰”が必要でしょう。失礼かもしれませんが、信者の方の中に、「気分屋」の方が時々います。そのような人は、「ミサに与っても持続性がない」「気分で教会に来る」「言動に一貫性がない」など周りを振り回すことがあります。

もちろん人間は誰もが気分に波があるのは当然です。しかし私たちキリスト信者は、信仰によって、キリストのように、“いつも変わらない心で生き”、人と関わっていかなければならないでしょう。それによって梅雨の雨も、夏の暑さも、自分の周りに起こる出来事も、神から与えられたものとして、あるがままにすべてを受け入れていくことができるのではないでしょうか。

主任司祭 西本 裕二


おすすめ記事