聖ヨセフ[メロードの祭壇画部分](ロベルト・カンピン画)

協力司祭 榎本 飛里

「なじむ」……。人間を中心に考えると「慣れる」+「親しむ」ということだそうです。「馴染む」という字が当てられているので、日本人は慣れ親しむという現象に「染み込んで(沁み込んで?)」いくイメージを持って来たのでしょう。では、主体としてはどちらが意識されているのでしょうか? 自分が周囲に? あるいは、周囲が自分に?(いやいや、もちろん双方向でしょうという回答を期待しつつ……)
ここでは、視点を単純化するために、一旦、人間と道具との関係に注目して話を進めていきたいと思います。「新しい道具が、最近やっと手に馴染んで来た」というような状況です。文房具・調理器具・楽器・靴やバッグなど、みなさん少なからず経験がおありだと思います。そう、あの感覚です。

大工道具が手に馴染むまでの変化に目を留めてみましょう。新しい道具は、使い慣れた道具と同じ形をしていても決して同じではない!……ということを再確認しておきましょう。つかの木肌はザラザラ、あるいはすべすべしているかも知れません。バランスも多少違うでしょう。金属部分も摩耗が無く、のこぎりなどは切れ味が良い反面、摩擦が大きいかも知れません。

チョッと話はそれます。道具の良し悪しを判断するのは人間ですが、道具の評価は使う人の技術・用途を含めて総合的に判断されるものです。子供用のバットはプロ野球選手にとってはおもちゃかも知れませんが、大人用のバットを子どもが使おうとすれば「バットに振られて」しまうことでしょう。手に馴染む道具というのは、人それぞれ違うのです。

さて、道具が手に馴染むとき、おそらく、初めに人間のほうが道具の特性を理解して、それに合わせることが考えられます。道具の特性をいち早く把握して、それを活かすような使い方を工夫し始める。道具を理解し始めた頃に上手に使えるようになってくる。
一方、道具のほうも人間に合わせ始めます。使用者の癖を反映して、使用者が使いやすいように摩耗したり、手油が「染み込んだり」して、しっとりと手に馴染んでくる。
このような両者の変化は、使い込むことで、使い込まれることで起こってきます。そして、職人は使い込んだ道具をとても大切にするものです。

ところで、私たちを道具として活用される職人は神ですから、最初から最高の仕方で私たちを導かれます。秘蹟的にも、既に神は私たちの中に染み込んでおられます。あとは、道具である私たちが、神の手に馴染んで、使いやすい道具に変わっていくばかりです。
救いの道具として、神の手に馴染みましょう。「救いを求めている人々」の手に馴染みましょう。
何度でも強調したいことは「教会が教会のためだけの秘蹟であろうとするならば、それはもはや教会ではない」ということ。教会とは「キリストを生きる者の集団」です。一人ひとりが、小教区が、そして全体教会がキリストを生きていないとするならば、もちろん神の手に馴染むことも、救いを求める人びとの手に馴染むことも適いません。

神の道具として使い込まれ、より相応しい姿に自らを変化させていきましょう。

メロードの祭壇画[受胎告知の三連祭壇画](ロベルト・カンピン画)
メロードの祭壇画[受胎告知の三連祭壇画](ロベルト・カンピン画)

(教会報「コムニオ」2023年9・10月号より)


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