昔の日本人は、「待つ」というのが得意だったと言われています。しかし最近は、子供だけでなく、大人も同じですが、みんな、なかなか待てなくなってきているように思います。待つことには、いろいろあります。流れや動きを待つとか。人や時を待つとか。チャンスやタイミングを待つなど、私たちの行動の様々な場面に現れてきます。
また私たちの日常生活でも、待つことが沢山あります。通勤するにも、列を作って電車やバスを待たなければなりません。買い物するにも順番を待って精算しなければなりません。しかし、この待つことにおいて、多くの人は、時間を気にしながらイライラして待っているように思います。
私は買い物好きで、スーパーマーケットなどによく行きますが、先日、買い物したときに、ちょっと意識してレジに並んでいる人たちを観察してみました。すると待っている人の多くは、何か落ち着きがないのです。じっとしていなかったり、精算している人をせかしたりと、みんなイライラして待っているように見えました。
これは多くの人が、少しでも早く買い物を済ませたいと思っているからではないでしょうか。早くあれをやりたい、早くあれを済ませたい、早くあそこへ行きたいなど、すぐにでも、だれよりも早く目的を果たしたいと思っているからではないでしょうか。また他人のせいで時間が無駄になってしまうと思っているところもあるのではないでしょうか。つまりイライラするのは、その人の時間のとらえ方によるということです。
待降節は、キリストを待つときです。私たちはそれをどのように待つべきでしょうか。待降節を待つというのは、ただ漫然と待つのではなく、待降節はアドベントとも言われるように、到来を意味しますので大きな希望が伴います。
ですから私たちは希望のうちに忍耐をもって、キリストの到来を待たなければならないと思います。
使徒パウロは「わたしたちの主イエス・キリストに対する希望を持って忍耐していることを‥。」(1テサロニケ1章3)と言っています。希望なき忍耐はただ辛いだけですが、希望があればそれは喜びですらあります。つまり忍耐をもって待つことの先に希望、そして喜びがあるということです。それゆえに、キリストを待つことにおいても忍耐が必要になってきます。
私たちは、この忍耐があまりないために、生活のいろんな場面でなかなか待つことができなくなってきているのではないでしょうか。それだから、私たちキリスト信者は、何かを待つときには、その先にいつもキリストを見るべきです。
私も以前は、レジを待つときに、前の人が支払いに時間がかかっているのを見てヤキモキしていました。でも今は、そんな時こそ、忍耐をもって待つように努力しています。その忍耐は、単に我慢するというものではなく、キリストを考えながら、忍耐して待つことによって、自分自身の心というものが本当に穏やかで、優しくなっていることに気づきます。
愛と平安の心で、主のご降誕を迎えるために、どうぞ皆さん、待降節、希望のうちに忍耐をもって待つということを是非、実行して頂きたいと思います。
主任司祭 西本 裕二