平和の働き手となれるように

幸せを運ぶハト

私たちは平和という言葉をよく口にします。そして今、自分や家族が幸せであることがさも平和だと勘違いしているところもあります。しかし真の平和は、すべての人が安心して幸せに暮らせる世の中にならないかぎり、訪れないことです。

パレスチナ暫定自治区のベツレヘムには、キリスト生誕の地に建つと言われる「聖誕教会」があり、昨年末に恒例のクリスマスミサが行われました。そのミサのなかでカトリック教会のエルサレムのピッツァバッラ総大司教は次のような話をされました。「今年のクリスマスには喜びと平和はない。2万人以上が犠牲になり、多くの人が避難生活を送るガザ地区に思いをはせている。政治的なことに立ち入りたくはないが、言わなければならない。停戦について話すだけではなく暴力の応酬を完全に止めなければいけない。暴力は暴力を生み出すだけだ」と説きました。
ピッツァバッラ総大司教が聖職者として政治的発言は慎むべきだとわかっていながらも、あえてイスラエルの報復攻撃を完全に止めるように説教で言われたことは異例なことですが、それは彼が命を何よりも守らなければならないという強い思いを持っているからだと思います。

もちろん教皇フランシスコもバチカンの国家元首としてイスラエルの民間人への攻撃を非難しましたが、その発言も同様に、元首の立場としてだけでなく、聖職者としての命の大切さや人間の尊厳を考えて訴えているものであります。
私たちキリスト信者もどんな立場であろうと、人の命の尊厳が脅かされるようなことがある場合、黙っているのではなく、声を上げて反対していかなければならないでしょう。しかし暴力によって解決をはかれば、ピッツァバッラ総大司教の言うように、また暴力を生み出すだけで何の解決にもなりません。

私たちの政治は「主の祈りの政治」です。戦争や争いの解決のために、アシジの聖フランシスコが神に「私を平和の道具としてください」と願ったように、私たちも平和の働き手となれるように、神に願っていかなければならないのではないでしょうか。

主任司祭 西本裕二


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