昨秋、姪の結婚式のため大阪に行った。式後、11月初めにリニューアルオープンしたばかりの神戸市博物館を訪問した。お目当ては「聖フランシスコ・ザビエル画像」、狩野内膳筆「南蛮屏風」など。帰ると、阿部師が一冊の本を薦めてくれた。高見澤たか子著『金箔の港』。副題は〈コレクター池長孟の生涯〉。池長潤前大阪大司教の父親である。前大司教の父・孟氏は財閥の豊富な財力で様々な功績を残した。例えば、経済面で困窮していた植物学者・牧野富太郎を救って大正7年、池長植物研究所を開館。国内外の南蛮美術を買い求めて、昭和15年、池長美術館を開館。のちに池長コレクションとして神戸市に寄贈。神戸市南蛮美術館、そして今回、他のコレクションと一緒に、神戸市博物館所蔵となった。
是非見たかったのは狩野内膳筆「南蛮屏風」。その屏風は六曲一双で、左隻には南蛮船が日本に向かって出帆する様子が描かれ、右隻には長崎に入港した南蛮船を迎える宣教師たち。右上には岬の教会(後のサン・パウロ教会)が描かれている。1591年8月のポルトガル船の情景が描かれている貴重な屏風である。出迎えの宣教師に交じって、高齢となったロレンソ了斎の姿が見える。山口でのザビエルと出会いを契機として、琵琶法師からイエズス会イルマン(修道士)となり、その後、ヴィレラ師とのコンビで、畿内の大名たちを洗礼に導くのに大きな働きを行った。その中には高山飛騨守と息子・右近も含まれる。狩野内膳はこの高齢の日本人修道士を注意深く観察し、見事に描いている。着物を着ているが、琵琶法師の服装をしている。帽子は他のイエズス会員が被るものと同じで、背中が前かがみになっているのは、加齢とこれまで耐え抜いた人生の労苦を物語っているようだ。彼は、晩年、長崎にあったイエズス会コレジオで余生を過ごし、1592年2月、64歳で帰天した。
晩年、了斎は巡察史ヴァリニアーノにこんな質問をしたという。
「日本の教会の初めには神父が少なく、日本語も十分に話せなかったときには回心する人が多かった。今は神父が多く、日本語をよく知っているにもかかわらず、受洗する人がそれほど多くないのは何故でしょうか」
ヴァリニアーノは即答しなかった。すると了斎は自分の考えを述べたという。「おそらく初めは、神父たちは日本語がよく話せなかったとしても、人びとに直接、神様のことやイエスさまについて話していましたが、今は遠慮しています」と。考えさせる了斎の言葉ではないだろうか。
主任司祭 松尾 貢