​ジョン・キーブルの信仰詩集『光射す途へと』より

アイキャッチ用 松尾神父の今週の糧

19世紀前半、先日列福されたヘンリー・ニューマン枢機卿と共にオックスフォード運動の中核的な働きを担いながら、英国国教会に留まったジョン・キーブルの待降節の詩を味わってみましょう。

 

〈待降節Advent〉

吹き荒れる凍たい木枯らしが収まって

小川が飛沫を上げて流れくだる季節は まだまだずっと先のこと。

まどろむ幼児の閉じたまぶたに 母親がやさしく口づけをするように

爽やかに渡る微風や穏やかな日影が

草木を目覚めさせて小さい花を開かせるのは はるか先のことなのだ。

それなのになぜ今、この侘しい冬の季節 疑惑の暗い空の下で、

喜ばしげに教会は うなだれる頭を敢えてもたげて仰ぐのか、

あたかも邪悪な時代は既に去ったかのように。

教会にはときを見分ける賢さもないのか、

春が訪れるまでは若葉を萌え出さない樹や草や 今はまだ、畳んだ翼の羽毛の中に 身をすくませている小鳥たちの賢さを。

教会は力と炎の言葉を知っている。決して絶えることのない愛の約束を。

主がかつて語られた終わりの日の徴の数々。吹き荒ぶ嵐、揺れ動く大地、

押し寄せる津波、世界を裂く戦争、掃き落とされる天の星々。

旧い世界が溶け去るのを教会は見ている。また、この恐るべき週末の嵐の彼方に

教会は救い主を仰ぎ見ている。信仰によって。

しかし主は、すでにお前の軒下に じっと耳を傾けて立っておられる。

しっー 静かに。沈黙するのだ。口を閉ざせ、主が聴いておられる。

またキリストは炉辺に佇み見ておられる。

もう「空騒ぎ」はやめようではないか。お前の悔い改める声が聞こえはしまいかと 主はそっと、待っておられる。

今こそお前が為すべきことは おぼろな靄を貫いて、視線を高く挙げること。

大空の彼方に広がる輝く曠野へと 静かで確かな眼差しを向けること。憐みに満ちた主の道を備えるために 使命を担う者たちを御使いと呼んで、天の生命を地にもたらすために 戦え、と主は言われる。(後略)

主任司祭 松尾 貢


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