東海道53次神奈川宿から横浜を歩く

アイキャッチ用 松尾神父の今週の糧

神奈川2地区司祭の前回の集いの際、今秋11月に祝われる「日本再宣教150周年」を迎える準備としてなにかできることはないか、2地区として率先してアクションを起こすことが決まりました。

早速、ドン・ボスコ社と交渉し、月刊誌『カトリック生活』8月号の特集で取り上げてもらえることになり、その取材活動の一環として、先週、編集部の関谷師ら2名、藤が丘教会の小笠原師と私は末吉町教会の小長井春雄氏の案内で神奈川宿を歩いてみました。

幕末当時、横浜は小寒村にすぎず、宿場町・神奈川の方がはるかに大きい町でした。1859年パリ外国宣教会のジラール師はフランス国総領事ド・ベルクールの通訳として品川に上陸、三田正泉寺を司祭館とします。そして神奈川宿・甚行寺がフランス国領事館だったために品川と神奈川の間をよく行き来していたそうです。その後、広い慶運寺にフランス領事館が移りますが、そのお寺のそばには成仏寺があり、ヘボン夫妻やブラウンなどが活躍していました。ヘボンはヘボン式アルファベットの考案者、明治学院やフェリスの創立にかかわった人物として知られている米国人宣教師です。カトリックとプロテスタントの宣教師が隣り合わせのお寺で執務をとっていたとは、なにか不思議で面白い光景が目に浮かびます。

みなとみらい線の終着駅・元町中華街駅の2番出口をでたところに横浜聖心教会の記念碑がたっています。1862年1月に居留地八十番で横浜天主堂がたてられると、瓦版や木版によって広く宣伝されたため、毎日、数百人から千人もの見物人が押し寄せたそうです。当初、ジラール師たちは幕府や奉行所に憚っていましたが、日本語の流暢なムニクウ師をはじめだんだん解説役をかってでるようになっていきます。しかし、当時はキリシタン禁制下、献堂の翌月には55名の参観者が逮捕され、戸部の牢にいれられるという「横浜天主堂事件」が起こったのでした。

神奈川宿・横浜ミニ巡礼マップが出来上がりましたら、皆様も家族のピクニックとして一度歩いてみませんか。

主任司祭 松尾 貢

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