1978年10月16日、コンクラーベの2回目の投票で誰も予想しなかった58歳の若きカロル・ヴォイティワ司教が教皇に選ばれました。そして選挙が終わって30分後に聖ペトロ広場の何万人もの会衆に向かって、「キリストにあなた方の心を開いてください.恐れてはいけません」という温かいお話をなさり、「Totus Tuus マリア様、わたしはあなたのものです」をご自分のモットーとして紹介なさいました。

456年ぶりのイタリア人ではない教皇、初のポーランド人教皇であるヨハネ・パウロ2世は誰もが舌をまくほどの学者で、クラコフ大学とローマの教皇庁立トマス・アクイナス大学(通称アンジェリクム)で博士号(神秘神学と哲学)を取得、ラテン語を含む多くの言葉を流暢に話しました。教皇としての活動は多岐にわたりますが、一番目立つのは“空飛ぶ教皇”“全世界の主任司祭”と呼ばれ、世界八十ヵ国の教会訪問をなさり、歴史上これほど人を集めた方はいないと言われているほどです。

もう一つの目立った働きはソビエト崩壊に果たした役割でした。何度かのポーランド訪問と連帯のワレサ議長との繋がりの強さはポーランドの民衆と労働者を勇気づけ、共産国の国々の解放、ベルリンの壁の崩壊につながっていきました。

ヨハネ・パウロ2世の説教は、いつも力と希望と楽観溢れるものでした。信者たちは勿論、他宗教の方々も同様でした。1981年日本訪問後、聖ペトロ広場でトルコ生まれの青年にピストルで撃たれ重傷をおいましたが、その後、犯罪者に会って赦しを与えられました。

第2バチカン公会議の精神に沿って、他宗教とより温かい関係が保てるように努めました。その努力の一つはアッシジで他の宗教の代表者とともに平和のために祈ったことでした。これは現在も続いています。エルザレム訪問の際は嘆きの壁の前で祈り、ユダヤ人がするようにその壁の穴へ自分の祈りを書いた紙を入れました。

司教たちの望みに応えて、長い準備の後、『カトリック教会のカテキズム』を発布しました。これはカトリック信仰を徹底させるためのよいテキスト、土台となっています。

明日22日は聖ヨハネ・パウロ2世の記念日です。1981年2月の来日の際、広島でおっしゃった「戦争は死です」という言葉をもう一度心に留めたいものです。

主任司祭  松尾 貢

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