11月2日は死者の日です。死者の月である11月は亡くなった方々を偲び、墓参を行い、聖徒の交わりの信仰によって、死者のために特に祈る月であります。この習慣は10世紀終盤フランスのクリュニー修道院から始まったと言われています。

16~17世紀、日本にやってきた宣教師たちが葬儀に対してどのような印象を持ったか、又、当時の人がキリスト教の葬儀をどう見たかを、五野井隆史著『キリシタンの文化』は下記のように説明しています。

仏教各宗派の寺院に僧侶が定住し、庶民の葬祭を担当するようになるのは1550年代以降で、江戸幕府が1665年に寺院法度が制定することによって完成します。それによって仏教が庶民層の葬祭儀礼を独占的に扱うことになります。

来日したキリシタン時代の宣教師が日本での葬祭について、書翰などで多くの報告や記述を残しています。要約すると、

  • 豊後府内や平戸など下地方、都では葬儀の在り方や規模に大きな差異があること。
  • 葬祭費用が貧者にとっては大きな負担であること。
  • 葬儀に参列する場合、男性は自分の持っている最良の着物を着用しており、裕福な女性は白い絹の着物を着用していた。西欧では葬儀の際、黒装束だったので、宣教師は白装束に驚いています。

一方、キリスト教式葬儀に対して、仏教徒も大きな関心をよせます。フロイスは『日本史』の中で次のように述べています。

「日本人たちは葬儀にたいへん気を遣うので、彼らが来世のことをさらに一層大事にするために、パードレは毎年11月のまる一月を死者たちのためにミサをいつも挙げることにしていた。そして、赦禱を唱えることができるように教会の中央に棺台が置かれ、その側に四本の大きな蝋燭を立てた。…府内の異教徒たちには、私たちの死者を埋葬する方法が大変立派に思われた。教会で行われた最初の葬式には、葬儀と埋葬の仕方を見るためにおよそ3千人の異教徒が参列した」

イルマン(修道士)シルヴァは、キリシタンたちが最貧の者にも富裕な者にも等しく敬意を払って慈愛と兄弟愛をみせ、尊敬の念を込めて貧者を埋葬していることに異教徒たちが強い感化を受けていると記しています。

主任司祭 松尾 貢

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