シエラ・レオーネなど西アフリカ諸国でのエボラ出血熱の感染が世界的な広がりをみせています。歴史的にみて、ペストやコレラの伝染病との闘いは古今東西どこでも見られたことでした。ヨーロッパの美術館に行くと、「黒死病」と称して死神の姿が描かれている絵や「死の舞踏」といった絵を見ると、当時の人々の恐怖を垣間見ることができます。

ドン・ボスコの伝記にも、19世紀のイタリア北部トリノ市でのコレラ大流行の話がでてきます。引用してみましょう。

1854年、トリノにコレラが流行った。この病禍は中部イタリアを経て7月下旬にトリノに入ってきた。またたくまに市中に広まり、3か月間に2千5百人がコレラに罹り千5百人が亡くなった。ドン・ボスコのオラトリオのあるヴァルドッコの近くでも多数の死者が出たが、その親族や同居人は伝染を恐れて、患者を置き去りにしたので、目も当てられない惨状になった。

市当局は二つの隔離病院をつくったが、病人を運ぶ人手が足りなかった。伝染がひどいので、誰も恐れて病人に近寄ろうとしなかったからだ。ドン・ボスコは自ら患者を探し出して、慈愛の手を差し伸べた。さらにオラトリオの少年たちに英雄的奉仕の提案を行った。すぐにドミニコ・サヴィオを含む18人の少年が応じ、翌日には更に30人が加わった。この50名近い少年たちのあるグループは隔離病院へ、あるグループは戸別訪問して置き捨てられた病人の発見と病院への搬送の仕事に従事した。3ヶ月後の伝染病の終息まで、少年たちの誰ひとり、コレラに罹ることはなかった。聖母の助けのおかげに違いない。

指揮者フルトベングラーの墓碑銘に刻まれている聖句は、「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(コリントの信徒への第一の手紙13章13節)です。

感染の危険の渦中にもかかわらず、現地で治療・看護活動に励んでいる国境なき医師団や国際赤十字、カリタスの方々の献身的な姿は、まさに、このパウロの言葉を実践しています。まさに21世紀の匿名のマザーテレサやドミニコ・サヴイオといえるのではないでしょうか。

主任司祭 松尾 貢
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