11月に13回忌を迎えた故ペトロ杉本さんの実家は長崎市浦上の家野郷だったそうです。
家野郷には1603年、聖クララに献げられた教会が建てられました。このサンタ・カララ教会は1614年の江戸幕府のキリシタン禁令で、長崎の他の教会と同じように閉鎖、破壊されました。しかしその教会址には、幕末慶応年間まで石が5つ6つ残され、伝承され続けられました。浦上キリシタンは、聖女クララの祝日を「善か盆」と呼んで、毎年陰暦7月19日、ここに集まって盆踊りを隠れ蓑に、信仰を確かめ合い、祈り合ったといいます。「家野はよかよか昔からよかよ サンタ・カララの土地じゃもの」という家野郷の盆踊り歌が1980年代ぐらいまで家野町のかくれキリシタンの間に伝わっていたそうです。
ところで、長崎地方で江戸時代250年間信仰を継承することができた理由は何だったのでしょうか? 潜伏の組織を作ることができたことが最大の理由と言われています。浦上の場合、次のような組織でした。惣頭(帳方)1人。触頭(水方)各郷に1人、計4名。聞役、各字に1人、計33名という指導系統です。リーダーの惣頭(帳方)は日繰り(教会暦)とオラショ本を所持し、一年中の祝日や教会行事を司り、祈りや教義を触頭や聞役を通して信徒に教え子孫に伝承したのです。
教会暦の中心は復活祭ですが、潜伏時代には「冬に祝い、春に悲しむ」と言われたように冬のナタラ(クリスマス)と春の悲しみの節(四旬節)がとりわけ大切にされました。キリシタン時代から潜伏時代まで信徒たちはクリスマスのことを「御身のナタラ」と呼んでいました。ポルトガル語のNatal(誕生)を言語のまま日本語読みにして使っていたのです。ナタラは信徒たちの親しみ深い大祝日でした。
キリシタン時代、この時期になると惣頭(帳方)は「お伽の薪」を集めてナタラを迎える準備しましょう、と呼びかけていました。
今日から典礼暦年A年が始まります。典礼の暦を司った惣頭(帳方)の心を想い、ナタラを迎える待降節を過ごしてまいりましょう。