お客様、とくに他の教会から見えた司祭は一様に鷺沼教会の侍者の多さにびっくりするそうです。大祝日など15名以上の侍者団がミサ奉仕をしていますが、これだけの侍者団は長崎でも最近は見かけなくなりました。これも自然に増えたのではなく、侍者会担当のお母様方の長年にわたるリクルート活動とお世話の賜物だと感謝しています。
さて、その鷺沼教会の侍者にもう一つ鐘を鳴らす役割をお願いしようと考えています。新しい典礼暦年C年が始まる12月2日から、ミサの聖変化の時に鐘を鳴らすことにしました。鐘を鳴らす習慣は、第2バチカン公会議以前はどの教会でも行われていましたが、公会議以降、欧米や日本ではすっかり消えてしまいました。しかし、韓国やベトナムの教会に行きますと案外今でもその習慣は残っているのです。女性のヴェール着用と同様、『総則』では「適当であれば」とか「地方の習慣に従って」という表現がなされているのであって、“こうすべき”とか“してはならない”という類いのものではありません。東京教区調布教会の教会報『シャローム』11月号の「もしもし神父様、教えてください」のコーナーで丁度このことが取り上げられていました。回答者の岡道信師の解説を引用してみたいと思います。
「鐘を鳴らすのは、典礼の大切な部分で、会衆にその時が“今”であることを知らせることです。司祭がパンとブドウ酒を聖別する前に〈聖霊の働きを願う祈り〉の時(司祭が奉納されたものに手を差し伸べる動作をする)、〈聖別されたものを会衆に示す時〉に、適当であれば、会衆の注意をひくために小鐘を鳴らすことができます。大きな聖堂で司祭の動作が見えにくい時は、鳴らすのが適当でしょう。
小鐘を鳴らすのは、司祭に動作を通してイエスの現存を会衆が目のあたりにすることが目的ですから、会衆は視覚を活用すべきです。ですから、礼をするのは、見た人の個人の心に任されています。『総則』で、適当であればとか、地方の習慣に従ってという表現を用いているのは、信仰の表現に自由を与えているのです。」以上の意味をご理解の上、待降節からの、小鐘の音をお聞きください。