昭和の日(4月29日)に、藤沢の聖園女学院で司祭叙階式がありました。新司祭・宮内毅(たけし)師の伯父にあたる宮内薫師(東京教区司祭)をはじめ百名ほどの司祭団による盛大な式でした。横浜教区長・梅村司教様は説教の中で、叙階式の中の「あなたの中でよい業をお始めになった神がそれを完成させてくださいますように」という祈りを取り上げられ、“どちらかといえば不器用で生真面目な”新司祭がその弱さの面をも武器にして神様のよき協力者となるようにと、勧められました。
最近、大貫 隆著『聖書の読み方』(岩波新書)が出ました。著者は勤務する自由学園最高学府や聖心女子大の学生たちに<聖書を読もうとして、もっとも戸惑ったことは何ですか。タブーは一切なしで、自由に書いてください>という設問のアンケートをしたそうです。
その結果をもとに著者は、なぜ聖書はそこまで読みづらいのか? その理由を3つ挙げています。そのうちの一つが、「聖書では原則としていつも、神を主語として話が進むことである」とありました。当然のことながら、聖書のどの文書の語り手も、自分を主語にして自分の経験について語ろうとはせず、あくまでも神、あるいは神の子イエス・キリストを主語として語るわけです。
“私が” “私が”という私の思いや感情、私の好き嫌いや打算が行動の基準となっている社会の中で、神様がお始めになった業が実現するようにと念じ、協力していく生き方は難しいことです。
5月は聖母月、そして今日は母の日です。天の母聖母マリアこそ“Fiat 神様の望みどおりになりますように”という言葉をもって、ご自分の中で神様の望みが実現するようにという生き様を示してくださった方です。
聖母の模範にならって、神様が私に、私の家庭や教会に何を望んでおられるのか、何をお始めになっておられるのかを識別し、協力していく心構えを祈り求めたいものです。