11月24日、長崎で「ペトロ岐部と187殉教者の列福式」が挙行されます。私たち日本の教会にとっても、日本の社会にとっても大きなお恵みだといえます。そこで、しばらくはシリーズで「殉教」について考えていきたいと思います。

語源は新約聖書に見られるギリシャ語動詞martyrein(証する)、名詞martyrion(証言)、martys(証人)です。

新約にあっては「証し」はすべてイエスさまに向けられます。イエスさまの最後の言葉としてルカは記します。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、3日目に死者のうちから復活し、その名によって罪のゆるしを得させる悔い改めが、エルサレムから始まり、すべての民に宣べ伝えられる』と。あなたたちはこれらのことの証人である」(ルカ24:48)と。
このイエスさまの言葉に対して、ペトロは聖霊降臨後、「神はこのイエスを復活させられたのです。私たちはみな、そのことの証人です」(使徒2:32)とその第一声の中で確認しています。そして使徒たちに対して迫害が始まり衆議会で大祭司から詰問されたときも、ペトロは自分と使徒たちの名において答えます。「人間に従うよりも神に従うべきです。われわれの先祖の神は、あなたがたが木にかけて殺したイエスを復活させました。……私たちはそれらのことの証人です」。また復活されたイエスさまに出会ったことを次のように説教しています。「私たちはイエスがユダヤの地方とエルサレムで行われた、すべてのことの証人であります。人びとはイエスを木にかけて殺しましたが、神はこの方を3日目に復活させ、人びとに現して下さいました。……私たちは、イエスが死者のうちから復活された後、食事を共にしました。そのとき、イエスは、ご自分が生きているものと死んだものとの審判者として、神によって定められたものであることを、民に宣べ伝え、かつ証言するようにと、私たちにお命じになりました」(使徒10:41)。

私は聖書のこの個所を読む時に、復活の証人としてイエスを宣教しているのに、なかなか信じてもらえないペトロのもどかしさを感じます。自分たちは“幽霊”を見たのではない。何かわけの分からない“お化け”の後ろ姿をちょっこり見たのではない。ゆっくりと“お食事”しながら、お話ししながら、時間をかけて、復活されたイエスさまを心と体で感じる経験をしたのです。だから、私たちの証言に耳を貸して下さいとの祈りに似た気持ちが込められているのを感じます。

主任司祭 田中次生
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