待降節は“待つ”がキーワードです。イスラエルの民族はかれこれ1800年余、“メシア”を待ち焦がれていました。その割には“イエスさま”に対して、歓迎する気配もなく、冷ややかな反応を示したと思えます。 その“待つ”ことに関して私たちのご先祖でもある“隠れキリシタン”を考えるとき彼らの信仰の強さを感じます。

1644年にマンショ小西神父が殉教しました。それから1865年3月17日のプチジャン神父による「キリシタン発見」までの221年間は、一人の神父もいない中で自分たちの信仰を守り続けました。彼らの信仰を支えたものとして、(1)秘密の地下組織の形成 (2)「バスチャン暦による行事・儀式・典礼生活」を生きたことが、大きな力になったと言われています。

片岡弥吉教授は「日本キリシタン殉教史」の中でそのバスチャンについて書いていますが、教会の資料にはないが信徒たちが代々尊敬した殉教者で、彼が伝えた1634年の太陰暦による「日繰り(ひぐり)・教会暦」と「4つの預言」を挙げています。それは (1)お前たちを7代までわが子とみなす。(2)コンヘソーレ(告白を聞く神父)が大きな黒船に乗ってやってくる。(3)どこでも大声でキリシタンの歌を歌って歩ける時が来る。(4)ゼンチョ(異教徒)が道を譲ってくれるようになる。

この中で、最初の「7代たったら、パードレが来る」がキリシタンたちにとってどれだけの希望を与えてくれたのか、私たちには想像できないことでしょう。そしてそのパードレの正統性を証明する3つの条件もバスチャンによって指示されていたのです。第1は、“マリア様に対する崇敬”、第2は“独身”、第3が“ローマ教皇に従うか”でした。

1865年3月17日、「サンタ・マリアの御像はどこ」で始まる3条件の確認のための質問をどれだけの思いで信徒たちがしたのか、これまた私たちの想像を超えるところがあります。先の片岡教授は、「ゆりがひそやかにささやいたこの言葉が『キリシタンの復活』という歴史を作った」とまで言っています。7代に亘って待ち焦がれていたパードレに対する熱い思いを感じます。

私たちのイエスさまを待つ気持ちが少しでも、キリシタンたちのその熱い思いに近づけたら、と思います。

主任司祭 田中次生
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