今日は「三位一体の神」を記念します。
名前というものがありますけれども、この名前というものには、不思議と力を持つことがあります。たとえば名前を聞くだけで、その人の存在を感じたり、その人の権威や大きさをイメージしたりすることができます。
私たちの信じるキリスト教の神は、「三位一体の神」です。山の神とか、海の神とか、商売の神とか、受験の神といったように、ただ安心するためのものとは違います。つまり私たちが神と考える三位一体の神のみ名は、本当の意味で大きな力を持っています。
私たちが日常、祈りなどで唱える神のみ名は、父と子と聖霊の三位一体の神のみ名です。十字架を切るときも、教会のいろいろな儀式のときもそうですが、必ずこのみ名を使っています。つまり、教会の物事はすべて、この三位一体の神のみ名のもとで行っているということです。
実際、三位一体の神のみ名を使うことで、洗礼を受ける人は、大きな力をもらって生きるようになり、ゆるしの秘跡を受ける人は、また頑張ろうという気持ちになります。それは洗礼やゆるしを望む人に、三位一体の神の力が働くからです。このように教会において、三位一体の神のみ名が大きな力を持っていることが少しは分かるかと思います。
一般的に、人はいろいろな物に名前を付けるときには願いを込めて、あるいはこだわりをもって付けるでしょう。たとえば自分の子どもに名前を付けるとき親はこだわりを持つかと思います。
ですから、私たちにとって一番大事な存在である神のみ名は、なおさらこだわるべきではないでしょうか。
使徒の頭であったペトロは次のように言いました。「私たちが救われるべき名は、天下にこの名の他は、人間に与えられていません」(使徒言行録4.12)と言って、イエス・キリストを人々の前で大胆に宣言しました。私たちもペトロのように、救いのために三位一体のそれぞれの神、父である神、御子イエス・キリスト、聖霊のみ名を大胆に宣言したいものです。
三位一体の神の存在は、私たち人間の小さな頭では、完全に理解することはできません。けれども、そのみ名を私たちが受け入れて、信じるということはできます。三位一体の神への信仰だけが、私たちを救いへと導いて下さり、人間としても、またキリスト者としても豊かさを与え、どんな困難や試練があってもそれを乗り越え、偉大な働きをさせて下さる力の「源」です。
ですから、私たちはこれからも、この三位一体の神のみ名にこだわり、そして何よりもこの神のみ名を大切にしていきましょう。
主任司祭 西本 裕二