協力司祭 榎本 飛里

「てらす」・・・最初に心に留まったのは自動詞であることです。

キリスト者であれば、聖霊さまに照らされた体験をはじめ、周囲の誰かから「照らしを受ける=照らされる」経験には事欠かない一方で、誰かに照らしを与えるとか、周囲を照らした経験については(謙遜が邪魔をして?)あまり思い浮かばないのではないでしょうか。あるいは、これはわたしの思い過ごしでしょうか。

「てらす」を自動詞として捉えた場合に、(私の場合は)腕まくりをして腰を据えて取り組む必要を感じていたのですが、今回、この「お題」を頂き、あらためて考えてみると、その照らしは偽物かも知れないと思うようになりました。「よ~し、照らすぞぅ!」とか「さぁ、照らしを与えて進ぜよう!」といった気負い、上から目線…。そこに自分の(悪い意味での)小ささが染み出ているような気がして来ました。何様のつもりか…と。

しかし、同じ自動詞でも「結果として照らしを与えた」場合、つまり、意識して(気負って)ではなく、無心で、一生懸命に何事かに務めた結果、神さまの恵みによって誰かが「照らされた」と感じるような場合、自分が道具として用いられているとしても、照らしたのは神ご自身ですから、その照らしは本物…と呼べるのでしょう。(ミサ後、信者さんに「今日のお説教は心に滲みました」などと褒められ、「どこが良かったですか?」と訊ねるのですが、「○○について△△とおっしゃって、わたしの□□という経験と照らして◎◎であることが良く分かりました。」などとご説明いただいても、わたし自身は「そんな話をしたっけ?」なんてことも…。)

主は、「あなた方は世の光です」と言われました。光は「照らそう!」として存在するのではありません。「在れ!」と言われたので、み言葉のままに光として存在します。ひょっとしたら、下手に腕まくりをするよりも存在を与えて下さったみ言葉に従って、あるがままの自分を訥々と生きることが、必要な場所に「本当の照らし」をもたらすのかも知れませんね。

(教会報「コムニオ」9・10月号)

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