主任司祭 西本 裕二

人間は何のために、どこに「向かって」生きているのでしょうか。多くの人は「自分は何のために存在するのか」、また「何のために生まれてきたのか」といった問いをつねに持っていると思います。昔、日本は「生きるのに理由はいらない」と考えるほど高度成長時代にあって、働くことが第一で人生を考える暇はなかったように思います。しかし現代は、特に不安定で先行きが見えない時代だからこそ、自分の人生を真剣に考える人が多くなっているのではないでしょうか。

「何のために、どこに向かって生きるのか」という問いに対する答えは、古代教会最大の教父アウグスティヌスの言葉にあるように思います。

アウグスティヌスは、若い頃、この世の様々な欲に溺れていました。しかし彼はそんな中にあってもつねに真理と心の安らぎを求めていました。それは彼が人間の本質は、内面にあると考えていたからです。そして彼は、『告白録』の中で次のように言っています。「あなたはわたしたちをご自分に向けてお造りになりました。ですから、あなたのうちに憩うまで安らぎを得ることはありません」と。このアウグスティヌスの言葉は、”人間は神に向けて造られた存在である”ということを私たちに示しています。

私事ですが、子供の頃から「死」をとても恐れていました。そのためにいつも不安と心配があり、死が気になって、度々恐ろしい夢を見ていたので、よく布団を頭からかぶって寝ていたのを覚えています。また祖母の葬儀の際、遺体を見るのが怖く、母親に抱かれて無理やり見せられましたが、目をつぶって、実際は見ていなかったように思います。それはやはり死を恐れていたからでしょう。死ぬのが怖いという思いは、正直、恥ずかしいことだと考えていました。また親など人に尋ねたところで誰も答えられないと思っていたので、人に言えず、自分のうちに抱え込み、特に青年期までそれでずっと悩んでいました。

そのため死の先が見えなかったので、人間死んだら終わり、何も残らない、そして自分がどこへ向かって生きていけばよいのか分かりませんでした。それが大きな悩みの一つになって、教会の門を叩いたという経緯があります。その根本的な理由は、私自身がまだ神の存在を受け止めていなかったからです。

今、死を全く恐れていないわけではありませんが、キリストを知ってから、死ぬのが怖いという不安や恐れは、あまり感じなくなりました。それは死の先にあるものに目を向けて生きているからだと思います。

死の先にあるもの、それは「神」です。神に向かって生き続けた人物と言えば、私は使徒パウロを真っ先に思い浮かべます。教会は今月6月29日に聖ペトロ・聖パウロの二人の使徒を記念しますが、特に使徒パウロは、ユダヤ教から回心して、ひたむきにキリストを求めて生き抜いた人物です。彼の生き方は、多くの人に生きる勇気と希望を与えます。

パウロは、次のように述べています。「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。」(ローマ14.7-8)と。キリストのために生き、キリストのために死ぬ、という生き方は、パウロがいかにキリストだけを見て生きていたか、またキリストだけを求めて生きていたかがよく分かるものです。そしてこの言葉は、パウロが単に信念を頼みとしたのではなく、確信して生きていたからこそ、心に響くものがあるのだと思います。

パウロは、回心するまえ、熱心なユダヤ教徒として、キリストの教会を迫害していました。それは自分が信じるユダヤ教の教えが正しく、それ以外は間違っているという考え方に捕らわれていたからです。つまり本当に大事なものが見えていなかったということです。しかしキリストはそんなパウロを選び出し、異邦人のために派遣されました。

パウロの姿から言えるのは、キリストは、ご自分を否定しても、教会に敵対しても、人を見下しても、キリストからの働きかけは、絶え間なく続いているということです。つまり神は人間に対して、ご自分の元に来るように、つねに呼びかけているのです。

パウロは、自分が神に選ばれたことを「神の恵みによって選ばれた」(ローマ11.5 ) と言っています。それはその人が熱心だから、誠実だから呼ばれるのではなく、神の一方的なあわれみによるものだからです。

ゆえに私たちも”神の恵みに気づくこと”が人間として何よりも大切ではないかと思います。それによって、パウロのように「神に向かって生きる」という人生の究極の目標をもって、ひたむきに走り続けることができるのではないでしょうか。