チプリアニ司教はさらに続く。神は、私たちがキリストのように話し、キリストのように行うことを勧める。しっかりとした信仰、言葉は慎み深く、行いは誠実であるように。
そして、何と言っても、励ましの中核は、悪の欲、とりわけ肉の欲へ強く抵抗することである。その励ましには、裏が見えて来る。
当時ローマの社会は、種々の点で爛熟期に入っており、道徳、とりわけ紊乱(びんらん)した性の乱れ、物欲は贅沢の極みに至り、ようやく皇帝の尊厳と法治国家の制度が崩壊を防いでいるさまであった。一例を挙げると、尾籠(びろう)な話だが、食堂の隣り、控室の隅には壺が置いてあり、今食べた食物を、喉に指を入れて吐き出していた。さらに山海珍味にありつくためである。
でも考えてみると、現代の私たちはそう無碍に非難できるだろうか。現在、食品ロス、つまりいまだ食べられるのに捨ててしまう量は日本では613万トン、国民一人当たり茶碗一杯分になる。一方TVでは、美味なもの、高価な食品が盛んに紹介される。そして一方、メタボに注意しよう、脂肪の取り過ぎと、血糖値に注意といった具合である。まさに飽食の時代と言えよう。
チプリアニ司教は、雲の間に住んで、世の中のことには縁遠い人ではなかった。まさに、権力への飽くなき欲望と、性へのあっけらかんとした無責任、それに美食とダイエットを交互に弄ぶローマ人の生活が、いかにキリスト教的精神にとって有害であることを真剣に悩み、ギリシャ文化の下、一見自由な権利を謳歌する後に隠れている欲望への警戒を怠らなかった。今日にも意義深い勧めではないだろうか。
主任司祭 長澤幸男