アイキャッチ用 田中神父の今週の糧

日本の殉教者たちと天国(No.6)

最初に浦上から諸藩に流罪されたのは、3,380人の中のリーダー格とみなされた114人であつた。彼等は5月21日、長州藩に66人、津和野藩に28人、福山藩に20人が預けられた。リーダーを隔離し陥落させれば、残りは総崩れになるだろうとの読みがあったのだろう。彼等は、1867年5月20日早朝逮捕され、沖合いの蒸気船まで運ばれた。津和野行きの28人は、尾道に上陸し役人に引渡された。引き受けた津和野藩は、天皇を中心に国として一致団結するために、国民道徳の確立が必要であり、まだその理解にまで達していない愚民は教化することで、思想には思想での態度を主張していた。10万石以上の諸藩の中で、4万3千石の津和野藩が流罪先に選ばれたのは、そういう藩の姿勢が影響したのでないかと、学者たちは言っている。

しかし、改宗の説得はなかなか上手く行きませんでした。最初はキリシタン達はお上からの預かり者ということで、かなり良い待遇を受けていました。三方を山に囲まれ、廃寺になっていた光琳寺の本道・庫裡・土蔵を竹矢来で囲んで牢獄にしました。そこに「異宗徒御預所」を置いて、改宗教導を開始しました。高木仙右衛門は「覚書」の中で、津和野に預けられたものは、老いも若きもえり抜きの精鋭だったと記録している。一ヶ月ぐらいは良かったが、説得ではあまり効果がないのでだんだんと厳しくなった。畳ははがされ、食べ物は減り(一日に3合足らずの麦飯・少々の塩と水)行った時の夏着のままで、布団の代わり一枚の蓆(むしろ)だった。冬になると寒くて寝られず、二人ずつが抱き合ってお腹をあたためたり、背中合わせで寝たりで、一晩に何回も向きを変えて寒さを防ぐのでした。そのため28人中16人が改心者となった。

私が「津和野の殉教者」が好きなのは、信仰を最後まで守り通した12人の一人である29歳の安太郎に「マリアさま」があらわれて、慰めて下さったことが、人々の証言の中に出てくるからです。このことについては、次回をぜひお楽しみにして下さい。

主任司祭 田中次生
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