列福をひかえともに祈る7週間 ―「テ-マ3・ゆずれないものとまことの自由」―

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ザビエルが日本に上陸してから、船便で、イエズス会総長や同僚たちによく手紙を書き、日本について報告しています。ミルワード神父様が指摘するように、その内容からザビエルの宣教師としての姿をみることが出来ます。「風景の美しさにも女性の姿にもザビエルは目もくれなかったらしい。建物は人間の住むところにすぎないと言い、歴史的な意味でも、芸術的な意味でもなんらの関心もしめさなかった。」「ザビエルはルネサンス人で、自然よりも人間に重点を置き」(講談社 ザビエルの見た日本)一言で言えば“魂を持つ人間”にしか目をむけなかったのです。

そのザビエルが日本人について、手紙でこう書いています。「私が、この三ヶ月の間に接したところから考えますならば、日本人は、今日まで見つけ出された人種の中で、もっとも優れた民族に属し、異教の人々の間では、もう、日本人より優秀なものはちょっと発見できないのではないかと思われます。日本人はひとなつっこく、一般に善良で、悪意と言うものが全く無く、まことに付き合いやすい国民です。また、何にも増して名誉というものを重んじ、名誉が全てでもあるかのようにさえ見受けられます。……」

しかし、ザビエルの「日本人評」は、イエズス会宣教師たちの共通認識ではありませんでした。1614年の禁教令でマカオに追放された同宿と神学生の多くが解雇されたり、自らイエズス会を離れました。それはカルヴァリオ管区長が、日本人の修道者・司祭としての不適格性を主張したからでした。

ペトロ・カスイはその渦中に苦しみながらも、そこから脱出してローマに向かい、「司祭叙階・イエズス会入会」をなしとげたのでした。彼は、日本の教会の中での、諸修道会の間の対立、西洋人の日本人に対する無理解等を乗り越えて、「イエス様を見続ける自由」を大切にし、殉教したのでした。

主任司祭 田中次生

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