今回の188人の殉教者たちは、溝部司教さまのお話では、次の5つの基準で選ばれました。
(1)日本人
(2)日本の教会全体から
(3)司祭不在のキリシタン達の信仰を守り抜いた「形・道」を考える。
(4)弱者と見られる「女性・子供・障害者」に焦点を当てる
(5)代表的な司祭を選ぶ
この5番目の基準で選ばれた「日本人の司祭」は全部で4人います。
長崎西坂のジュリアン中浦、大阪のディオゴ結城了雪、長崎西坂のトマス金鍔次兵衛、江戸のペトロ岐部カスイです。この四人に共通点はいくつかあります。ひとつは海外で勉強しているので、世界的視点からも「信仰」を見ることが出来たこと。第二に、迫害の嵐(1614年家康の禁教令)の中で、司祭になることを望み叙階されていること。第三に、各地の隠れキリシタンを訪問しては励まし、秘蹟をさずけ、「羊のために命を捧げる“よき牧者・キリスト”に忠実に従った牧者であることがあげられます。
今回は、天正遣欧少年使節の四人のうちの一人、中浦ジュリアン神父について、その足跡を辿りたいと思います。1582年長崎を出航し、2年半かけて彼等はロ-マに辿りつき、教皇グレゴリオ13世に謁見を許された。高熱にうなされて謁見が危ぶまれたが、教皇の慈父の計らいで特別謁見がゆるされた。そのことは1633年10月18日、西坂の刑場入りした時「私はロ-マに行った中浦神父です」と名乗るほど、かれの生き方に一つの方向をあたえたようだ。帰国後秀吉に謁見を許されたとき、仕官をすすめられたけど、四人ともそれを断り、ジュリアンはイエズス会入りを希望した。なかなか司祭叙階の許可がおりず、1608年ようやく長崎で叙階された時は、もうすでに40歳だった。
幕府の禁教令の後、宣教師達は国外追放されたが、密かに潜伏させた残留司祭の中に、「顔を知られていない」理由で彼も含まれた。1621年ロ-マのイエズス会総長に当てた書簡に彼は書いている。「神様の恵みにより何時も元気です……毎年告解が出来る4千人以上の信者の世話が私に任されていて、その上、私達の間で分担されているここの国の布教の旅もあります……」厳しい監視の中、「秘蹟に命をかける」中浦神父の姿が目に浮かびます。