復活されたイエス様は、弟子たちや女性達に現われても、特別にこれといってお話はなさいません。その最たるものはマタイの聖書です。別に、マタイに恨みがあるわけではありませんが、復活されたイエス様は、三回しか言葉を残していません。
(1) 「おはよう」と婦人たちに。
(2) その婦人たちに「恐れることはない。行って、私の兄弟達にガリラヤに行くように言いなさい。そこで私に会うであろう。」
(3) 御昇天の時の別れの言葉。全世界に行って宣教し、洗礼を授けるように、私は世の終わりまであなた方と共にいるから。
私は個人的にはイエスさまの最後のお言葉「私は世の終わりまで、いつもあなた達と共にいるのである。」が好きなので、イエスさまのこの言葉は大切に思っています。しかし、復活のメッセージは、もう少しピシッと決めて欲しかったといつも思っています。
ルカの聖書では、弟子達に現われた時、「弟子達は喜びのあまり、まだ信じられず、不思議に思っているとイエスは、『ここに何か食べる物があるか』と仰せになった。それで焼いた魚の一切れを差し上げると、イエスはそれを受け取って、みなの前で召し上がった。」と記されます。ヨハネは「奇跡の大漁」の時、153匹もの魚を引き上げてくる弟子達のために、イエス様は炭火をおこし、魚とパンの準備をし、待っておられます。そして「さぁ、朝の食事をしなさい」といってそれらをとって弟子たちに与えられました。
復活されたイエスさまに初めて対面して、とまどっている弟子達でも出来る「共通項」を一生懸命に探しておられる様な気がします。食べるというごく人間的なことは、復活されたイエス様には全然関係がないはずなのに、「共に食事をする」という親しい関係をイエスさまは大切にされたようにも、考えられます。食べる・働く・料理するという何でもないことにでも“共にいる”ことを約束して下さったイエス様は、つきあってくださるのです。教会・ミサ聖祭・祈りの時だけではないのです。私たちの生活の中に、イエスさまは共にいて下さるのです。