子供の時、「死・お墓」が何故こんなに怖かったのかと時々思います。霊柩車が通る時、皆で親指を必死で隠したりしました。そして皆より少し遅れた時には、大丈夫だったのかと心配したりしました。
学校での勤務が長かったので、火葬場に行って初めて「人の骨」を見たのは、母親の葬儀の時でした。その時には、生前の母親のいろんなことが思い出されて感無量でした。
ある父親がこんなことを言っていました。「自分も“お墓”は薄気味悪いし、怖いし、嫌いでした。しかし、娘を墓地に葬ってからは変わりました。墓地は親しみと暖かさをもたらすものとなりました」と。教会の仕事をするようになって、随分「お葬式」をするようになりました。親族達の涙を見ていると、その悲しみを出来る限り「亡くなられた方を祈りの内に神様の手元に送り出す」ことで、お慰めしたいと思います。
そういう心を込めて、ご遺体を聖水で祝別する時には、散水の器具を使ってするだけでなく、直接ご遺体に手で触れて、祝別することにしています。イエスさまは、幼子を連れてきて手を触れて下さいと頼んだお母さんたちの願いを快く引き受け、「幼子達を抱き、彼らの上に両手を置いて祝福された」(マルコ10:16)のでした。ナインのやもめの息子を蘇らす時には、「『泣くことはない』と言って、近づいて棺に手をお触れになると……」(ルカ7:14) とルカが記すように、母親と息子さんの悲しみの輪にイエスさまご自身も入りたいという気持ちが伝わってきます。そういう気持ちで私もご遺族との悲しみを共有できればと思っています。
時々、いつものなじみの葬儀社以外の人が担当することがあります。終わって雑談などをしている時に、よく「教会のお葬式は暖かい」と言われます。それはそうです。悲しみの中にも、「復活を信じる人たちが歌う聖歌」は、永遠の命への「希望と喜び」が含まれているからです。
もし復活されたイエス様が、私達の教会でお葬式の司式を頼まれたとしたら、惜別の悲しみの中にも「復活への希望と喜び」に私達の心を向けて下さることでしょう。