アイキャッチ用 田中神父の今週の糧

今日は「主の昇天」の祝日です。マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの4つの福音書は、御昇天については、あまり書きません。マタイが5節(28:16~20)、マルコが2節(16:19~20)、ルカが4節(24:50~53)、ヨハネは全然取り上げていません。その中で、今日読み上げられた使徒行録の2人の男の人(天使)の言葉は、ここにだけ記されており、なかなか味わいのある言葉だと思います。「ガリラヤの人たち、何故天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなた方が見たのと同じ有様で、またおいでになる」との言葉です。

これはある意味で、天使からの注意の言葉です。「何故見上げて立っているのか」は、平たく分かりやすく言えば「何故いつまでも天を見つめて“ボサット”しているのですか、もう少し真面目に宣教に取り組んだらどうですか?」という咎めの台詞です。天に昇っていかれるイエス様を見つめているのですから、決してサボっているのでも、まして悪いことをしているのでもないのです。イエス様を見つめているのですから、それは祈りといってもよいでしょう。

これは私なりの解釈ですが、復活されたイエス様が、弟子達や女性達に現われて、説教したり、復活についてのお話をしないで、「お食事の準備をしたり、一緒にお食事したり」されたことと関係があるように思います。復活されたイエス様は、私達の日常生活をとても大切にして下さったのです。「天を見上げる」ことも大切ですが、立ち続けていてはいけないのです。

イエス様が、天使を通して私達に語りかけたいのは、私達が「天を見ながらも」私たちの日常生活を大切にするようにということです。生活を大切にすることを通して、その中でイエス様と「共に」歩むようにということです。「パンを割く時」だけでなく、漁をしながら、歩きながら、食事をしながらも、イエスさまにお会いすることが出来、また、お会いしなければならないということを理解してほしいのです。時には「天」を仰ぎ見ながら、しかし毎日の生活の足元もしっかりと見ながら、イエス様と共に歩んで行きましょう。

主任司祭 田中次生

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