2012年は、横浜教区に属する私たちにとって、大きな節目となる年です。それは、150年前の1862年、横浜に日本でいち早く天主堂が献堂され、再宣教が始まったからです。

長崎での浦上キリシタン発見があまりに大きな世界史的事件だったために、目立たないのですが、長崎の大浦天主堂(通称:フランス寺)献堂の3年前にすでに横浜に天主堂が建立されていたという事実をあらためて思い出したいと思います。

17世紀に布教聖省の認可を得て設立されたパリ外国宣教会は修道会に属さない教区司祭の会で、主にアジア宣教に従事しました。布教事業が飛躍的な発展をとげた19世紀には、カトリック最大の宣教会として2千人を超える宣教師を送り出しました。

1844年、パリ外国宣教会のフォルカード師は日本での再宣教を準備すべく、中国人伝道士オーギュスタン高と共に琉球に上陸、日本語の習得に励みます。46年にフォルカード師は日本代牧に任ぜられ、香港に転じ、その後帰国(ヌベール司教に任命)しますが、ジラール、フューレ、メルメ・ド・カション、ムニクーの4師が1855年那覇に上陸、日本語を学びながら日本開国を待機します。58年の日仏修好通称条約締結後の59年、ジラール師はフランスの初代総領事ベルタール付きの司祭兼通訳という身分で、カトリック司祭として江戸に居住します。60年、ジラールに招かれたムニクー師が横浜に到着し、語学力を生かして、日本語での教理説明、公教要理問答や祈祷書を編集します。61年2月には横浜居留区八十番地に最初のカトリック教会が落成し、62年1月に献堂式が行なわれました。

落成式の日から大勢の日本人が連日見物に訪れ、キリシタン禁制下、33名が捕縛されるという「横浜天主堂事件」が起きました。総領事らの交渉によって釈放され、日本人への布教厳禁が確認されます。

今年一年、私たちは横浜での再宣教の始まりを思い起こしながら、故国を離れて極東日本で骨をうずめるまで宣教活動に励まれた多くの宣教師方へ感謝の祈りを捧げながら、私たち自身の宣教の使命について黙想し、実践に励みたいと思います。

主任司祭 松尾 貢
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