ウンベルト・カバリエレ神父

子供の時の話はきりがないので、まとめますと次の通りです。

1937年ウンベルトは6月生まれだったので、この年には小学校に入学できず、お祖母ちゃんと叔母さんの家で一年勉強しながら待機。そのため、1938年4月1日に入学し、2日後には飛び級で早くも2年生になる。1941年、寮生として田舎の小学校へ転校し、4年生から6年生に飛び級するが、この二学年飛び級は、後々まで苦労でした。1942年、ブエノスアイレスに戻り、一流の中高一貫校を受験するも見事に不合格。おんぼろの私立サレジオ校へ入学。1948年、卒業。学費のため中央銀行に入社し、勤めながら大学受験。ブエノスアイレス大建築科7年間課程に入学。学生と銀行勤めは無理なので退職。1949年、小学校教諭(朝の部)をしながら、午後は大学に。1949~50年、高校の同級生やOBとの交流活動(図書設立、公演会、映画鑑賞会、評論会等)。

その交流活動で1950年の秋、80キロ離れたルハンのマリア巡礼堂へ、有志OBが巡礼を企画。この巡礼の参加者はOB会のリーダーグループの13名。ルハン巡礼後のミサが終わって教会を出ると、数人が町の繁華街に遊びに行きたいと言って歩き出しました。残された3人は“家に帰る”と言い、皆とはそこで分かれました。

駅に戻って汽車に乗った我々3人(ブエノスアイレス大生の21才と20才が二人・僕は一番若い)は、なぜか空しい気持ちを感じていて、最初は言葉すくなかったのですが、自然と人生の話、都会の生活、若者の娯楽の話になり、そして何と3人とも同じ不安を抱いていたのが分かったのです! 私たちはこれでいいのか?と。

2時間後、ブエノスに着いた僕たちの頭は燃えていました。何でいっぺんに、学問の世界からこの別の世界に移ってしまったのだろうか? 不思議に思った半面、真剣でもありました。やがて午後2時ごろ、郊外に住んでいる一人とわかれました。市内に住む私たち2人はさらに歩き、やっぱり同じ内容の話で夜まで語り合いました。私たちは何かしなくてはならない、何ができるのか?……。

腐敗しかかっているこの街で……何ができるだろうか……? とか、いろいろな話が出ました。同じ道を行ったり来たり、とうとう、脚が丸太ん棒になるまで歩き、それぞれの家に帰り着きました。正直言って、不安の入り混じった気持ちが頭から離れないまま、半年近く経ちました。これは何のことか、どこからか? 何のためか? 分かりませんでした。

すでに大学2年になっていましたが、この後ぼんやり過ごしていました。友達でさえ、いい大学を出ることと、社会で成功することが世間の当たり前の常識だったので、自分だけがとり残された感じがあったけれども、別の道に引っ張られる力が働いているのも感じました。

理解できないまま、恩師の神父さまに相談することを思いつき、伺いました。

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