ウンベルト記

ウンベルト・カバリエレ神父

私は、最近物忘れはするが、晩酌は忘れないという体質になったようですが、日本にいつ来たかは、忘れません。粗大ゴミだと間違えられたかどうかは記憶にないけれど、イタリアのジェノワから、古い貨物船に載せられ、アジアのすべての港を巡るのに75日もかかりました。ある朝早く船が止まったので、デッキに上がると日の出を浴びた六甲山が目の前に! ワォー!

その夜、大阪から夜行列車の低い二等席に10時間座り、朝7時にラッシュアワーの東京駅につきました。黒いスータンを着たままで、でっかい荷物を二つ抱えている巨人がホームをあるいているその光景を見て、日本人は全員キョロキョロ。

駅から直行した、二年前に完成していた、ぴかぴかの調布神学院で歓迎会。歌をリクエストされた私は、ナポリ民謡で応えました。数日経たないうちに、人手不足の小平の東京サレジオ児童養護施設の240名の監督に……。日本語学校に行く暇もなく、教えてくれる人もなく、子供たちが私の日本語の先生になりました!

365日、24時間勤務。翌年から2年間、哲学,教育学、心理学、仏教、近所の子供たちの土曜、日曜学校、イタリア語劇、日本語の劇、喜歌劇、寸劇、コント、漫才の連続。サレジオ会では、神学4年間の前に、3年間の実施過程(青少年と生活ができるかを試す期間)があります。次の年、私は育英中学校,工業高校で頑張りました。一年で、いよいよ神学の勉強に専念することになりました。神様のことを学ぶこんな大きな恵み。聖書、教会史、神と人間の倫理。社会倫理、教会法、典礼、サレジオの霊性など。特に創立者聖ドン・ボスコのようなチマッテイ神父様に触れ、教わった徹底的な養成に感謝感激です。

日本語と日本社会の教育については余裕がなくて、不足を感じながら、最初の年から今まですべて独学で補いました。私は頭がカラキシ駄目なんだから、あちこちで大きな穴を残しながらも、まだ生きています。下井草教会で1961年12月に叙階を受ける恵みをいただいて神父になりました。5年前大和教会と山手教会で金祝、これから5年先には、鷺沼教会でダイヤモンド祝?

このように、未熟なままで、新設の育英工業高等専門学校に任命。一年で首になる覚悟で、結局20年間も我慢してもらい、毎日4時間の授業、土曜日午後の長い告解、日曜日のミサ2回、オルガン、コーラス、380人の高校1年生の野尻湖オリエンテーション、キャンプと登山、2年生の志賀高原のスキーキャンプ指導、生徒指導、教務と就職指導、などのお蔭でやっと、若い男子の気持ちを知ることができました。心理学の本で学んだものが良かったが、能タリン能タリン。

体をぶつけて付き合うことで、理解できてよかったと思います。家族の中と同じように朝から晩まで、一日中触れ合って。しかし大人の日本人男性についてはまだ未知の部分が残っています。何を考えているかも、ときどきわかりません。でも、最大の悩みが、勉強不足のためか、女性の心理をうまく捉えられないことでしょうか。これから勉強していきたいと思います。

以上述べたことについて、エピソードと細かいことの、何時間もの話がありますので、尋ねに来て下さい。


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