ミサの典文中、「主の祈り」の直前に、「主の教えを守り、みことばにしたがい、つつしんで、『主のいのり』を唱えましょう」とある。原文に素直な訳を試みると、「救いに必要なこの祈りを唱えるようにと教えられ、同時に、おん父の救いの計画に従った私たちは、畏(おそれ)多くも、勇気を持って祈ります」。
長い能書きは要らない。本来、神の前に立つのもおこがましい限り、どう転んでも身分不相応な私たちが、主イエスの励ましの命令に背中を押されて、祈ることができるのである。
こんな具合である。それだから、願うときは慎み深くあるべきである。祈るとき自ら神の前に立っていることを自覚し、神がご覧になっていることを意識して、動作も、声の大きさも度を超えないようにと。口数多く、大声で喚き散らすのは、愚か者のやることで、不毛である。対して、慎み深く、謙虚な祈りは、実り多い。主は言われる。「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」。信仰から、神がどこにでもおられ、すべてを知り、どんなに隠れたところでも見通されることを知っているからである。
こうして見ると、この文章(前文)は、チプリアヌスが紀元258年に殉教しているところから推測すると、すでに3世紀以前にローマ典礼にあって、現在と変わらない前置きであったと判明する。
「主の祈り」を唱えるにあたって、和することが大事であるが、同時に怒鳴ったり、声を荒げたりせず、私たちが、主の救いの約束に召されていることを思い、慎み深く祈るのである。
主任司祭 長澤幸男