阿部 仲麻呂
(都筑教会協力司祭、東京カトリック神学院教授)

「これらのことについて証しをし、また、これらのことを書き記したのは、この弟子である。そして、わたしたちは、この弟子の証しが真実であることを知っている。しかし、イエスの行われたことは、このほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界さえも、その書かれた書物を収めきれないであろうと、わたしは思う」(ヨハネ21・24-25[フランシスコ会聖書研究所訳])。

「しるす」という主題を考えるとき、いつもおのずとヨハネ福音書の最終部分の文章がおもい浮かびます。もっと厳密に言えば、「書き記す」という言葉が大変印象深く心の奥底で響きわたるのです。

イエス・キリストが大切にされていた弟子のヨハネ。このヨハネがイエス・キリストのことばとわざを証しするとともに書き記したのです。このヨハネは恩師のイエス・キリストのことばとわざの代表的な動きだけを書き記すにとどめました。言わば、イエス・キリストのことばとわざのすべてをまんべんなく書き記したわけではありませんでした。しかし、イエス・キリストとの最も大切な思い出があますところなく書き記してあるわけです。

私たちも大切な相手との関わりを日記にすべてまんべんなく書き記すわけではありません。しかし、楽しいひと時だった日の欄に「◎」と書き込んだりはします。特別なしるしを付けることで、かけがえのない関わりの喜びを思い出せるように工夫するわけです。

その意味で、ヨハネ福音書そのものは「日記」に似ています。イエス・キリストと自分との深い関わりの出来事を思い出す「きっかけ」としての記録の仕方を心がけているからです。それゆえ、ヨハネ福音書は、きわめて個人的な経験を大切に書きとどめている書物です。自分自身が命がけで関わった大切な相手との思い出を何とかして遺そうとして心をこめて文字を書きつづったのです。
ヨハネと同様に、イエス・キリストと自分との深い関わりを「書き記す」ことはキリスト者にとって重要なふるまいです。もしも、私たちがイエス・キリストのことを心の奥底に「書き記していない」のならば、残念きわまりないことです。自分にとって大切な相手として、イエス・キリストのことが気にならない状態が続くとしたら、キリスト者はキリスト者らしさを失います。そうなると、「キリストとは無縁な者」となってしまいます。洗礼を受けてキリストの弟子となりながらも、自分の浅はかさによって「キリストとは無縁な者」の成り下がってしまうのだとすれば、せっかくの貴重な関わりの宝ものを無駄にするばかりか二度と見い出せないままで人生を棒に振ることになりかねません。

しかし、イエス・キリストのほうは私たち一人ひとりに対して熱烈に関わろうとされています。心をこめて関わって下さるイエス・キリストの誠実な姿勢をおもうにつけて、筆者は自分自身の「さめきった気持ち」を申し訳なく思う次第です。

イエス・キリストの弟子のヨハネは世界に向けて派遣されて「使徒ヨハネ」として成長しました。命がけでキリストとの深い関わりを他者に分かち合うためです。命がけで大切な相手を他者に伝える態度が「証し」です。この体当たりの「証し」を他者の心のなかにもしっかりと根づかせようとして、使徒ヨハネは記録を「書き記し」ました。その意味でヨハネ福音書は他者に対して開かれた記録でもあります(もちろん、先ほども述べましたように個人的な経験の記録でもあるのですが、同時に他者との響き合いの出発点の呼びかけでもあるのです)。使徒ヨハネの命がけで体当たりの生き方を尊敬している私たちもまたイエス・キリストを体当たりで「証し」するとともに「書き記し」てゆけますように。

福音記者聖ヨハネ(『フランス王妃アンヌ・ド・ブルターニュの大時祷書』より)
福音記者聖ヨハネ
(『フランス王妃アンヌ・ド・ブルターニュの大時祷書』より)

(教会報「コムニオ」2023年3・4月合併号より)

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