エルサレム入城[部分](ハンス・ホルバイン画)

今日、教会は「枝の主日」を迎えます。イエスがエルサレムへ入城されたとき、多くの群衆は、イエスがラザロをよみがえらせ、多くの病人や悪霊に取り憑かれた人をいやしたというニュースが知れ渡っていたのでしょう。そこで人々は「待ち望んでいたメシアが来られた」と大喜びして、イエスがロバに乗ってきた道に服やシュロの枝を敷き、「ホサナ」(主よ、私たちを救ってください)と叫んで歓迎しました。

それに対してファリサイ派の人々はあせりました。彼らは群衆の手前、公然とイエスを捕らえることができなかったからです。そこでイスカリオテのユダを買収して、イエスを捕らえる計画を立てました。そしてイエスは捕らえられ、裁判にかけられます。群衆は、最初イエスを歓迎したにもかかわらず、十字架にかけられることに反対しないどころか、宗教指導者たちの「十字架にかけろ」という声に賛同して、同じように「十字架にかけろ」と叫んだのです。

このような群衆の心変わりはいったいどういうことでしょうか。それは「見た目の判断」です。つまり彼らの理想としていたメシア像と実際のイエスの姿にギャップがあったからだと思います。ロバの子に乗って入城されたとき、民衆はこの時点できっと歓迎しつつも、少し違和感を持っていたと思います。それも強い王を期待していた群衆の多くのは、イエスが簡単に捕らえられ、鞭打たれた姿を見て、がっかりして「ペテン師」「うそつき」と言ったように裏切られた思いをもって、信頼が持てなくなったからでしょう。だからこそ民衆は心変わりしたのではないでしょうか。

これは当時のユダヤ人たちの多くが外見で人を見て、判断していたということがうかがえます。そしてこれは今の私たちにも言えることではないでしょうか。
人と話してみたら、付き合ってみたら案外といい人が多いことがあります。強面の役者でも、優しく穏やかな人柄が評価されている人もいます。外見よりも人に対してどのような態度を取るかが大事です。
しかし見た目で判断し、決めつけるような人は、自分の中に勝手な理想をもっているのではないでしょうか。これはイエスを十字架にかけた群衆も同じでした。それは彼らが自分たちの中に勝手なメシア像を作り、それに当てはめようとしていたからです。

けれどもイエスという方は違いました。イエスはどんな人でもあっても、その人を信頼していたからこそ、多くの人たちはイエスに従っていったのではないでしょうか。
私たちも人を見るとき、その人の内面を見て、信頼することが大事ではないでしょうか。それによって、私たちの人に対する態度も大きく変わってくるのではないかと思います。

主任司祭 西本裕二


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