親が育てられない子どもを匿名で預かる「赤ちゃんポスト(コウノトリのゆりかご)」を熊本市の慈恵病院が開設し、5月10日で10年を迎えた、ということで先日話題となっていました。
毎日新聞の大見出しは〈出自知る権利 課題〉というものでした。
「親を知る手がかりがなく、子どもたちが精神的な衝撃に直面する」という主張です。皆様はこのテーマに関する議論をどう受け留められたでしょうか。
私が考えたのは、知る権利よりも前に、もっと重大なことがある。それは存在する権利、生まれる権利ではないか、というものでした。そもそも、「赤ちゃんポスト(コウノトリのゆりかご)」は欧州においては中世以来の取り組みなのです。赤ちゃんを育てることができないとき、子供を殺すことなく、しかるべきところに預けてください、という姿勢です。
例えば、イタリアのフィレンツェのアンヌンツィアータ広場にある捨て子養育院美術館(Galleria Spedale degli Innocenti)はヨーロッパ最初の孤児院であり、現在も一部にその機能を残しています。それは回転扉(Ruota)です。回転箱と訳す場合もあります。種々の事情があって、子供を育てられない女性が回転扉に子供を置き、備え付けられた鐘を鳴らして、立ち去る。そうすれば素性を明かすことなく、また幼児の命を絶つことなく、養育院に引き取られて育てられた、という長い歴史があるわけです。
フランスではトゥールといいます。聖ヴィンセンシオ・ア・パウロが設立した愛徳姉妹会はながくその任にあたってきました。
そこには、主の十戒の第五の掟「汝、殺すべからず」。生命は貴いもの、相手が弱い存在であればあるほど奪ったたり、殺してはならない、胎児であっても、というキリスト教の強い確信が底流に流れています。
キリシタン時代に来日した宣教師たちが当たり前のように行われていた間引きに驚いたこと。また、20世紀に来日したマザー・テレサは中絶大国の経済発展した日本のことを“貧しい国”と表現しました。
生命は神様の領域に属する。命の重さを考えながら、このテーマを見ていく必要があるのです。カトリック信徒である私たちは福音的価値観をしっかり持ち、発言していく務めがあります。カトリック女子修道会が経営から撤退したとはいえ、熊本の慈恵病院の皆さんはしっかりとカトリックの価値観を継承していると言えるのではないでしょうか。
主任司祭 松尾 貢