四旬節の始めに灰を受けて、キリストのご苦難に合致する40日の務めに励んできました。勧められた祈り、犠牲、愛の業はどのように行なわれてきたでしょうかと反省する時です。そして今日、受難の主日を迎え聖週間に入りました。「聖週間は、救い主キリストのエルサレム入場に始まる受難の追憶に向けられる」(典礼暦年の一般原則31)期間であり、わたしたち信者一人ひとりがキリストの受難に一致して生きるべき時なのです。

このため勧められることは、受難のくだりをゆっくり味わいながら黙想して読むことです。今日、ミサ聖祭において「受難の朗読」が行なわれました。典礼のめぐりあわせで、今年はB年に当たり、マルコの福音書の「夜が明けて、最高法院がピラトに裁判を委ねる」ところから、「イエスが息を引き取られ、百人隊長がその死に立ち会うところ」まででした。(15章1節~39節)しかし、本当の朗読(長い部分)は、イエスの殺害計画から始まる最後の聖なる週間の日々をたどりながら、イエスを墓に葬った婦人たちが墓を去るところまでになっています。(14章1節~15章47節)

「受難劇中の種々の登場人物は宗教的な目的を果たしている。読者または聴衆であるわたしたちは、自分がどのようなイエスの裁きに関与しているのか、考察しながら参加するように招かれている。物語中のどの人物と同一視されるか」(レイモンド・ブラウン『十字架につけられたキリスト』p9)をゆっくり考えながら、色々の場面に自分を立ち合わせてみることは意義深いことだと思います。このため、自分の福音書を開いて読みかえしてみてください。

歓呼しながらイエスを迎える群集のひとりとして、お金のために師を裏切りそれさえ投げ捨てて失望したユダとして、自分にも危害が及ぶのを恐れて逃げ去った弟子のひとりとして、弱さのなかにイエスを否定し続けたペトロとして、良心に反し平気で手を洗ったピラトとして、自分たちの体制保持のためにイエスを断罪した宗教指導者の一人として。

しかし、自分をある種の人間と早急に決め付けるべきではありません。それでは受難の黙想から得るものはないでしょう。聖週間の黙想、受難の黙想は、イエスとともに歩みながら、救いの喜びに向かって具体的に自分の生活に生かす実りを得るためなのです。四旬節の締めくくりとして、少しだけ心の潜心を保ってこの黙想に打ち込んでください。

主任司祭 小坂正一郎
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