先月、ウクライナの情勢をニュースで見ていたとき、確か、ウクライナの激戦地のマリウポリでジムのトレーナーをしている民間人の男性だったと思いますが、彼が報道カメラに向かって訴えた発言には、正直、私は司祭として動揺しました。
それは彼が次のように訴えたからです。「皆さん、祈るのをやめて下さい。現実的な支援をして下さい。祈っても無駄なのです。祈っただけでは、子どもの命を救うことも、高齢者に食事を提供することもできない」と。
この悲痛な叫びに対して、私は何の反論する言葉もありません。それは彼が戦争という悲惨な状況の真っ只中にいるからです。

きっとこの男性も最初は祈ったでしょう。しかし、なかなか食料や医薬品が届かず、目の前で多くの人が苦しみ、死んでいく姿を見て、「人ができる現実的な支援をしていくしかない。祈りは役立たない」と感じたのではないでしょうか。このような人に対して、「祈れば何とかなる」と誰が言えるでしょうか。人は困難や試練のうちにあるとき、祈ることに対して失望感や嘆きを感じてしまうものだと思います。
あのパウロでさえ、困難の中にあったとき「私はどう祈ったらよいか分からない」と嘆いています。

鷺沼教会では、主日ミサの意向としてウクライナの人びとのために何度も祈ってきました。しかし、私たちは本当にそれだけでいいのでしょうか。やはり自分のできる具体的な支援も必要だと思います。それは使徒ヤコブが言うように「信仰は行いが伴うもの」だからです。
使徒ヤコブはこう言っています。「もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたの誰かが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう」(ヤコブ2・15-16)と。これは私たちにも言えることではないでしょうか。
鷺沼教会として、カリタス・ジャパンをとおしてウクライナへの人道支援募金活動を始めました。このような募金の協力なども大事だと思います。

ですから、私たちはキリスト信者として、それぞれが「祈りを捧げる」とともに、自分ができる「行い」という両輪でウクライナの支援に取り組んでいくように致しましょう。

主任司祭 西本 裕二

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