1620年11月司祭に叙階された岐部神父がローマ滞在中の、1622年3月12日、イグナチオ・ロヨラとフランシスコ・ザビエルの列聖式が「聖ペトロ大聖堂」で行われた。創立者ロヨラと日本に最初に「キリスト教」を伝えたザビエルの「魂への思い」は、イエズス会員であった彼の心を揺さぶりました。式に参加した彼は、6月6日すぐさま帰国のためローマを発ち、リスボンに向かいました。

当時の日本の状態は、けっしてキリシタンのために、よい状態ではありませんでした。年代を追ってみればすぐ理解できます。

1587年秀吉伴天連追放令を発す(ペトロ岐部誕生の年)
1597年長崎26聖人の殉教
1613年有馬(レオ林田助右衛門等)の殉教
1614年幕府全国にキリシタン禁令を発し、宣教師や有力キリシタンをマカオとマニラに追放。天草(アダム荒川)の殉教(ペトロ岐部、マカオに渡る)
1623年家光将軍に。12月江戸の大殉教(ヨハネ原主水の殉教)
1624年広島(フランシスコ遠山甚太郎等の殉教)仙台の大殉教
1627年踏み絵の制度始まる。島原(バルタザル等)雲仙(パウロ内堀作右衛門等)の殉教
1629年米沢(ルイス甘粕右衛門他52人)の殉教
1630年ペトロ岐部帰国。坊津に上陸し、長崎に行く
1633年ペトロ岐部東北に向かう。長崎に厳しい迫害が起こる(フェレイラ神父の棄教)
1635年「寺請制度」の発足(すべての人を寺の門徒し、寺にも証明させる。)
1636年熊本(小笠原玄也、マリアみや、他13人)大阪(ディエゴ結城了雪)の殉教
1637年島原の乱。長崎西坂(トマス金鍔次兵衛)の殉教
1639年鎖国の完成。江戸(ペトロ岐部)の殉教

ペトロ岐部神父は日本にいた時の迫害も、国外に追放された経験からも、日本におけるキリシタンの迫害のことは、きちんと状況を把握していました。そんな時だからこそ、「神父である自分」は信徒たちの父として、「よき牧者」として、迫害の渦中に身を置くべく、帰国を急いだのでした。

主任司祭 田中次生
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