わたしたちの罪をおゆるしください、わたしたちも人ゆるします。

ご聖体

毎日の糧(聖体)でもって支えられた私たちは、神のうちに生きる、それも現在だけでなく、一生の間、さらに永遠に生きるのである。しかし、永遠に生きるためには、私たちの罪が赦されることが必要となります。主は言われる。「あなたは私に、負債を帳消してくださいと懇願したので、全部赦したのである」。

この赦しの勧めは、いかに大事であり、またいかに摂理的で、救いにつながるものなのかを説明して、「私たちは罪人であり、罪の赦しを懇願する者である。一方、赦しは神からであり、私たちのほうでは、魂は自分の罪を認めることが求められる。であるから、不遜にも、『私には何の罪もない』とうそぶいたり、さらに悪いことに自己礼賛に陥って滅びることのないよう、毎日、罪の赦しを願うことを勧めます」。司教は、使徒ヨハネのことばを引用して、「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理は私たちのうちにありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義から私たちを清めて下さいます」(使徒ヨハネの手紙一1章8節~9節)と説いている。

ここで注目すべき点は、チプリアニ司教が、日々の聖体拝領と毎日の罪の赦しとを、セットにしている点である。推察の域を出ないが、おそらくチプリアニ司教の時代の典礼で、すでに、感謝の祭儀の中、聖体拝領の前の「主の祈り」が唱えられていたと思われる。要するに罪の告白と聖体をいただくことが非常に密接につながっていたと言えよう。

今日、ミサ聖祭において、ご聖体をいただくことはミサを完結する意味で不可欠との意識は概ね皆にある。がしかし、聖体をいただくためには罪の赦しが大切であること、さらに「主の祈り」はそのための祈りであることは、あまり伝わっていない。その理由の一つとしてミサの初めの「告白の祈り」で罪の赦しをもう済ませたということだろうか。

主任司祭 長澤幸男

Jiang MillingtonによるPixabayからの画像


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