日本の殉教者たちと天国(No.10)

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この甚三郎には、次のようなエピソードも残されています。一度躓いた経験は、かれを謙遜で祈りの人にしたのでした。仙右衛門と甚三郎は、何回も三尺牢と氷責めにあってもくじけないので、役人たちはこんな作戦を立てました。

改心した者たちを収容している法心庵の近くの三尺牢に甚三郎を移したのです。改心者の気ままで、食べ物など何の不足もない生活を見せて、誘惑しようとしたからです。しかし役人たちから厳重に注意されていたにもかかわらず、改心者たちは、役人の目を掠めて食べ物等の差し入れをしたのでした。私が「乙女峠の殉教者たち」が好きなもう一つの理由です。他の流配置の場合、改心者と未改心者の間は険悪で、未改心者は改心者を軽蔑するし、改心者は未改心者の信仰心を挫こうと、役人に積極的に協力したのに、乙女峠の場合は、改心者と未改心者の間には相手を思いやる気持ちがあり、役人の目を掠めて相互扶助していたのです。

甚三郎は、改心者の好意は好意として感謝しながらも、天狗(悪魔)の誘惑に陥らないようにと、ほとんどそれに口をつけずに神とマリア様にお祈りを捧げるのでした。そんな信仰堅固な甚三郎を見て役人達はまた新たな作戦を立てました。光淋寺の外庭に今度は穴を掘り始めたのです。そしてこんなうわさを広めたのです。「今度はキリシタンを土牢に入れ、上の屋根に食べ物の入るほどの穴を開けるだけで、糞尿の中を寝も立ちもされんようにするのだ」と。また、今度はキリシタンが死ぬまで土牢に放っておかれるのだとのうわさも広がりました。

このうわさを聞いて、まだ信仰を堅持していた12名も今までにない恐怖に囚われました。三尺牢には耐えられたけれど「土牢」に耐えられるのかどうかと新たな不安が12名の心を締め付けました。甚三郎手記には、次のように書いてあります。「そこでなお驚き、人間の力にてはかなわず、天狗のすすめにあい、まよいの心が出んといわれません。それによって、天主・聖まりあさまに、一心をもって願いました。……ところが、この責を上より、自ずから止めてきました。これが天主、さんたまりあのおめぐみでございましたろと、うれしくござりました。」(沖本常吉『乙女峠とキリシタン』参照)

殉教者たちの謙遜とマリア様に対する子供としての信頼、そしてマリア様の母の心を感じます。

主任司祭 田中次生

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